Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

否定をしないようにするのと、否定がないの違い。

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目の前の世界がそのまんまなんやー!
ゆーてねー。

ゆーてるわけなんですけど、
そこに否定があると、それが苦になるわけですねー。

思い通りにいかんことが「苦」ですからねー。

宗教的な教えとかだとね。
贅沢すんな!
とか、
我慢せえ!
みたいなニュアンスの教えも結構あったりするんじゃないかな?
と思ったりするんですけどね。

否定のなさ。
それが、あるがままの世界だとしたら、
自分の中から、否定を取り去れば、
自分もあるがままの世界に入り込める。

そして、この否定を生み出すのは、
煩悩や執着である。

煩悩や執着を生み出すのは、欲である。

欲を取り去ることができれば、
ワシらはあるがままに戻ることができるんだ!

みたいなね。
そんな論法なんやと思うんですよ。

まーねー。
一見、論理的に見えるんですけどね。
この論法やと、大きな見落としがあるんですよねー。

否定を取り去ると言うことは、許すということやと思うんですね。
でも、
この論法だと、一個めっちゃ許してないのがありますやん?
っておもうわけです。

 

いろんな苦行や、
スピ系のワークとかでも、
結構この執着を手放すための方法だったりすることもあると思うんですけどね。

その大前提にめっちゃ許してないもんがありますよねぇ?

そう。

自分のことですね。

執着を持ってる自分はダメだ!
取り去らなきゃならないんだ!

ゆーてねー。

自分のこと、めっちゃ許してへんやん。

って思うわけです。

まず、自分を許してあげること。
そこが最初であり、唯一やと思うんですよね。
自分が許せたら、目の前のありのままも許せてくるんですよね。
だって、全ては、自分の中で見てるイメージですので。

そして、自分が許せてたら、修行なんか必要ないわけです。
また、修行をするのは自分が許せてないということが大前提になってたりするわけでしてね。
修行の先に許しやありのままや悟りがあるわけじゃなく、
修行の先には、修行という行為の勘違いへの気づきがあるっちゅうわけですね。

うはw!
全然見当違いの道を歩んどった!
って気づくことが、修行の終わりですし、
見当違いのところを探しとった!
と気づくことが、探求の終わりな訳です。

どこを探そうと見当違いになるんですね。
なぜなら、探さなくても良かったからなんです。

ありのままの自分ですでに完璧です。
でも、そうじゃないという思い込みがあるなら、
多分、何かを見落としてるんです。

なので、単に見てあげるだけで良いわけなんですん。
スンスンスン。

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