この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。
喜びへの欲望をあきらめなさい。
そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう
(『I AM THAT 私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話』 より )
おはようございます。タクさんです。
この言葉は僕も好きなニサルガダッタというインドの偉いさんの言葉です。
苦痛と快楽という二つの考え方が、苦痛を避け、快楽を得ようとするわけですが、これは自分という本能が持つある種の自然現象でもあるわけです。
あくまでも、現象があるとする大前提での上の話なんですけどね。
で、
苦痛を耐えなきゃならないわけでもありません。
だからといって、快楽だけを追い求めるぜ!というわけでもないわけで、
この本能である自然現象だけに注目し続けているということに、ちょっと気づいて見ると良いかもよ!という提案やと思って聞いて見ると良いかもしれません。
僕らは、あることが気になっていると、それを中心に物事を見てしまいがちです。
マイブームみたいなもんですかね。
そういえば、以前、とある成功哲学大好きな人と話してたら、
やたらとシンクロやわぁー。
うわー!シンクロ二シティやわぁー。
が口癖でした。
僕は、以前、マッキンゼーの企業価値評価を学ぶ講座に通ってたことがあるんですけど、
その時の同じ受講仲間の人は、
これは、バリューがあるわぁー。
あるわぁー。。。バリューが、、、。
ってのが口癖だったりして、
僕もつられてバリュー、バリューってゆーてたんですけどね。
外資系の人ってバリューバリュー言いますよねぇ。
ま、いいか。
話が逸れてしまいました。
さて、マイブームの原点には「ワタシ」という観念があります。
その時々の環境や、立場などで、演じる自分は使い分けたりするわけですけど、
その底には、「ワタシ」がいるとしているわけですね。
でも、じゃあその自分ってどんなモノなん?
と問いかけて見ると、それはその日によって、またその時の感覚によって変化していて、
つかみ所がなかったりもするわけです。
つまり、自分という観念はその時々、都度、構成されているわけですね。
なので、実際のところ、その実体はないわけです。
ブッダのいう「一切皆苦」の「一切」とは、
最初に構成される「自分」という観念から構成された一切の世界のことを意味しとるんやと思います。
そして、ニサルガダッタさんが言う、
「苦痛の宇宙全体」
という言葉も、
この自分から発生する世界の中のことなんですよね。
ちなみに、自分とは、分離を埋めようとする働きを持つ現象だとも言えるかもしれません。
実体はないけど、働きとしては起こるもんですのでね。
分離という観念を通して見ると、自分と自分以外があるように見えるんですけど、
これはある種の現象ですのでね。
水が高いところから低いところに流れるのと同じようなもんなんです。
この水の流れも現象ですのでねー。
この現象を掴み取って、自分という分離が生じているわけですが、
これって、現象が先にあって、それを自分が掴み取るという順序なのか?
というと、そうでもなく、
掴み取ったと同時に現象も発生してるような感じでしてね。
本来は何もないんです。
なので、こういう話って苦痛をどうにかするという話じゃなく、
単に苦痛のなさが明らかになるという話でございまして、
ただ、この明らかさを「自分」というまな板の上には持ってこれないので、
この話を理解したら、自分の中の苦痛がなくなるという話でもないんですよねー。
ややこしいですねぇ。
ただ、苦痛とは、思い通りにならない時に起こります。
そして、思い通りにならないというのは、あるがままへの抵抗として起こっています。
ですが、この抵抗すらもあるがままの一部でもあるわけです。
なので、この抵抗があることを単に見てあげるんですねー。
そして、見てあげることができると、それは許しになるんです。
許しとは、あるがままでええよ〜。という許しなんです。
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