Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

見てあげることで、癒されるんです。

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「どろにんぎょうは、ふしぎなおどりをおどった!」

というわけでおはようございます。
タクさんです。

ドラクエっていうゲームで、敵がふしぎなおどりを踊った!
って場面が出てくるんですけど、
このふしぎなおどりってどんな踊りなんやろう??
っていつも想像したものでした。

ちょっと自分でも鏡の前で、ふしぎな動きを試して見たりして、、、。

で、そうやってふしぎなおどりをやってますとね、
鏡に映る自分がね、
もうアホそのものに見えてきましてねー。

誰もいないのに、ちょっと照れて辞めてしまうんですよね。

なんやねん。
この話。

ってことなんですけど、

これがね。
癒しなんです。

自分を癒してあげる方法なんですよ。

なんやそれ?ってことなんですけど、
書いていこうかと思います。

 

ま、見てあげる。
ってことなんですけどね。

これって、その存在を認めてあげるって言うのにも似てたりしてねー。

いろんな思考や感情だったりに同化してる時ってね。

特に嫌な思考やったり嫌な感情やったりするとね。
結局、そう言うのを押さえ込もうとするだけで、
見てあげてないんですよね。

あるがままというのは、そう行った嫌なものがある。
これがあるがままですのでね。

見てあげてないということは、あるがままを見てないっていうのと同じことなんですよね。

どうしても、イメージ的には
「あるがまま」の「それ」というのは、
嫌な感じじゃなくて、とってもキラキラした良い感じのもののはず!
といった思い込みがあったりしますのでね。

どうも、やな感じが起こってるときは、
このやな感じは、「あるがまま」の「それ」とは正反対のものに違いない!

カルマだー!
ということで、消し去らねばー!
ってなったりするわけですけど、

そういうのが起こってる。
これがすでに「あるがまま」ですのでね。

それを消し去ろうとしたり、押さえ込もうとしたりしてることって、
結局、あるがままから目を背けてる。
っていうことなんですよね。

で、なんの判断も通さずに単に見てあげますとね。
あるがままのそれが残るわけです。

あるがままにしておいてあげるっていうのが、癒しであり、許しでもあるんですよね。

なので、何かしらを消し去ったりすることじゃないんです。

例えば、自分がふしぎなおどりを踊ってるとするじゃないですか。
でも、せっかく踊ってるのに誰も気にも止めてくれなかったとしたら、
もっと激しくふしぎに踊りたくなると思うんですよ。

で、あまりに激しくなって来ると、流石に気になってきて
誰かが、無理くりその踊りを押さえ込もうとしてきたとしたらね。

なんか、まだ踊りたいが未消化なまま残るじゃないですか。

でも、逆に、ふしぎなおどりを踊ってるのに、
なんの判断もされず、それでいてジーッと見られたらですね。

なんか、照れてしまうやないですか。

で、踊っててもちょっと恥ずかしくなってきて。

うん。もう十分だわ。
って踊りを終えられますよね。

これが、踊りの成仏なんです。

それが癒しだというわけなんですよね。

成仏とは仏に成るって書きますけど、
仏とは、そのまんまのありのままのことなんでしょうねぇ。きっと。

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