Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自我ちゃんとありのままの「それ」について。

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自我ちゃんにとっては「ありのままのそれ」については、絶対に認められないものなんです。
つまり理解不能なんですね。

なぜなら、自我ちゃんとは、これではダメだと何とかしようとする動きそのもののことを指してるからなんですねー。
つまり、「あるがまま」ではイカン!としている動き。その動きそのものが自我ちゃんだというわけです。

じゃあなんで、このままじゃダメだっていう、
自我ちゃんのような動きがあるやろうねぇ??

といいますとねー。
何にもなさである「それそのもの」を、何かと同化させることによって生じる分離が、分離であるがゆえに足りないものを埋めようとしている。
ということなんですよね。

うん
よくわからないですよね。
順に見ていきましょう。

 

まず「それそのもの」である「何にもなさ」についてなんですけどね、
ま、言葉の通り、まさにありのままであり、それそのものなわけなんですけど、
自我ちゃん目線で見る何にもなさとはちょっと違うんです。

普通、「何にもなさ」ときくと、
静寂で、
動きもなく、
透明で、
何もつかみどころがないような静けさを想像しちゃったりしません?
イメージとしてですけど。

つまり、何も掴めないようなもん。
それが「何にもなさ」である。
みたいなイメージですね。

でもこれは自我ちゃんが、なにも掴めないからその目線で想像しているだけでして、
実はなにも掴めないのが「何にもなさ」ということじゃなく、
何も掴んでないから、何にもなさな訳でございます。
ややこしいですよね。

つまり、何もつかむようなものがない状態ということじゃなくて、
単に何も掴んでないだけだということです。
なんでも掴めるけど、掴んでない状態というのが近いかもしれません。

「何にもなさ」は同時にあらゆることが常に起こっていたりします。
諸行無常というわけですね。

さて、この諸行無常。
平家物語の冒頭の文でも有名ですよね。

平家物語では、
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

なんて表現されています。

ここでの諸行無常は、勢いのあるヤツもいずれ必ず滅びる。
調子の乗っとるやつもいずれは絶対に滅びるもんやでぇー。

なんていう意味で表現されていたりしますが、
僕が言いたい諸行無常とは、

単に、全ては常に変化している。
特に意味はなくねー。

といったニュアンスです。

身体だって毎日変化してますし、空気だって常に流れていますし、
全く動かないように見える石だって、長い目で見れば変化をしておるわけです。

止まってるものはなく、常に全て(諸行)は動いて(無常)いる。

ということです。

なので、「何にもなさ」は「何にもなさ」という側面と同時に全てが起こっては消えていくを繰り返している。
とも言えるんです。

そして、あるのは、その「それ」だけだというわけなんです。

この「それ」が全てですので、この全てから逃れることはできません。
僕らも全ての観念を手放すと、この「それ」だけが残るんです。

この観念を手放すというのはね。
観念を無きものにするということじゃなく、
単に同化から離れるといったイメージなんですよね。

さて、
何にもなさである「それそのもの」を、何かと同化させることによって生じる分離が、分離であるがゆえに足りないものを埋めようとしている。

というのはですね。

この「何にもなさ」の中で、自分という中心点をイメージ上で設けることから始まります。

実は自分という観念は、
ときには感情だったり、
ときには記憶だったり、
ときには身体だったりして、
その時々の都合によって変わったりしています。

そして、何にもなさである全ての「それ」を
この自分という仮に作られたイメージ上の器に閉じ込めちゃうわけなんです。

すると、途端に全部であった「それそのもの」は限定された小さな個別のものになってしまうわけなんです。

すると当然、足りないものが出てくるわけですね。
全てであった「それ」が小さな自分と同化しちゃうものですので、
どうにも弱々しさを感じてしまうんです。

そうなってくると、この弱々しい自分を強化しようといろんな条件を付け加えたりします。

でも、こういった条件で縛れば縛るほど、よりその条件にそって、全てである「それ」の範囲が狭まってきて、小さくなるんです。

こういったあらゆる条件や、自分という中心点。
これらが全て観念だというわけなんですね。

そして何かしらの観念と同化することによって、分離が生じるというわけです。
分離が生じるので、足りなくなり、足りないから埋めようとする。

でねー。
ここで大きなジレンマがあるわけなんですけどね。

そう聞くと観念がなくなれば、「それそのもの」「あるがまま」に戻れるんとちゃうんかい!
って思っちゃうじゃないですか。

でも、こういった「足りない」という自我ちゃんが生じているのも「ありのまま」だというわけなんです。
これを認めずに手放そうとすると、ここで延々と自我ちゃんが自我ちゃんをてばなしつづける。

つまり、足りないから埋めようとする動きが、足りないという衝動を埋めようとし続けるという延々とと終わることのないグルグルになっちゃう場合があるんですよねん。

自我ちゃんには絶対に分かることは無いのね!
ということを許せたときに、はじめて明らかさが姿を現してくれるっちゅうわけなんです。

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