Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

無条件の愛ってなんやろね?

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大元のそれとは、無条件の愛でございます。

じゃあ、このよく言われている愛ってなんなんやろうねぇ?
って話をね。
ちょっと書いて見たいと思います。

これ、
一言で言っちゃうと分離のなさということであります。

そもそもね。
分離があるっていう考えって結構無理がある論理だったりするんですよね。
どことどこを、どの部分で区切るねん?
ってね。
考えて見ますと、どこで区切ったら良いのかよく分からなくなってくるんですよね。

身体の表面で区切るのが一番わかりやすい分離の概念なのかもしれませんけどね。
皮膚の部分が自分とその他を区切るラインと設定して見てもね。

息を吸えば、自分じゃなかった空気が自分の中に取り込まれますし、
息を吐けば、自分だった空気が外に溶け出すわけでして。

身体だって変化を常に繰り返してますし、その変化は身体の中だけで行われるわけじゃなく、外の影響を受けながら変化をしていくわけですのでね。

つまり、明確なラインを引くことは不可能であるにもかかわらず、
思考、観念の中で分離があるように振舞ってるだけだったりするんですよね。

あなたが感じている他人もあなたの中のイメージですし、あなたが感じている自分自身も自分の中のイメージですのでね。
このイメージに確かな確証もなく、じゃあ、確かな確証がどこかにあるのか?
と探して見ても、確証なんてものは最初っからどこにもないんですよね。

 

さてさて、
無条件の愛とは分離のなさなわけでございます。
そして、分離っていうのは夢のような、幻想のようなイメージの中で作られたものですので、元々はこの分離のなさ。つまり無条件の愛しかないってことなんですけどねー。

なんか、
別に「愛」とかいって、妙なお花畑的な何かを表現しようとしてるわけじゃなくてですね。

これって、どんな感じなのかと言いますと、
あえて言葉で表現すると、
完全に一致した共感みたいなもんなんです。

そこに条件もなく、全てがそれそのものであり、そこに分離がありませんのでね。
目の前に見えている全てのもの。それが完全な共感として自分自身である。

このことのある種の実感なんですよねー。

それが、本来のデフォルトの姿だというわけなんです。

赤ちゃんが全くの非力であるにもかかわらず、
そんな条件を物ともせず、当たり前に祝福されてて、
任せきってる感じ。
実はこれ、大人になってもさほど条件は変わっとらんのです。
誰も明日のことはわからないわけでして。

そんな中で、ないものに関して心配してるのが大人であって、
そう言った心配や判断がイメージの中で世界化しとるように見えとるだけなんです。

明日なんてものも実はないので、その心配は取り越し苦労だったりするんですよねん。

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