Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

リアリティをまだ求めているのにリアリティのなさを受け入れようとすると空虚になる。

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リアリティ感っていうのが、いわゆる幻想のようなもんなんですけどね。
見かけの自分?というやつは、
その、リアリティに何かしらの価値といいますか、意義を感じてたりするんですよね。

なぜなら、ホントのことこそ価値があり、ウソには価値なし。
と思っているからです。

 

でね、
価値があるものこそが自身を守りより良くする。
という思いの設定みたいなもんがあるんですよね。

そういった信念がありますので、価値ある本物を求めるわけです。
価値ある本物こそがリアルであり、リアリティな訳です。

でね。
このリアリティに価値を感じているという感覚ね。

これが、自我ちゃんの妄想のようなもんなんですけどね。
それを掴み取ったままで、何にもなさを知ってしまう。
みたいなことがあったりするんですよねー。

うおっ!
マジで「それ」とは何にもなさや!
と、いう体験です。
一瞥体験とか見性体験とか言われとるやつです。

実はこれ、体験ではなくて、
単に思い込みという判断が一瞬だけ落ちただけなんですけどねー。
自我ちゃんにとっては、
今まで判断の中だけで生きてきたつもりでいたけど、
そうじゃなかったことの発見だったりするわけです。

でも、やっぱり自我ちゃんというクセは残っておりまして、
やはりどこかでリアリティーの感覚。本物への価値観は捨てられずにいるんです。

そういう時に何にもなさを知ってしまうと、
なんとなく空虚な感覚に陥るパターンがあったりするんです。

そうなると、本物の悟りの状態をより手に入れようとしたりしてハマっちゃったり、自分は悟ったんだ!みたいな観念にハマっちゃったりするパターンもあるっぽいんですよねん。

ま、自分は悟ったという誤解については今回はおいといて、
空虚さについてなんですけど、

この空虚さは、リアリティへの価値観の大きさだというわけです。
どういうことかと言いますと、価値観が大きいとその分、空虚さも大きいということですね。

で、この価値観こそが、単なるイメージにすぎないというわけなんです。

なのでねー。
一瞬だけ垣間見たそれを追い求めるんやなくて、自分が持ってる幻想の価値観の方を見てあげたら良いんですよねー。

どこかで本物???の価値観にこだわっていないか???
という部分ですね。

垣間見たそれを追い求めちゃうと、どうも悟りの理論に走っちゃう場合もありますのでね。

何かをつかもうとする癖がありながら、悟りの理論をつかもうとしても、
結局追いかけっこのように、より本物、より深い知識への終わらない探求にハマっちゃったりもするわけです。

こういうのって、理論じゃないですしね。

理論は観念という世界の中だけで通用するゲームの設定みたいなもんですので、、、、。
ゲームの外では理論は当てはまらんのです。

独自のおままごとルールは、そのおままごとの中でしか通用しないのと同じでね。

そういう時も、より良い理論を追い求めるというよりは、追い求めようとする自分の欲求の方を見てあげたら良いと思うんです。

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