Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

至福とは究極の平凡さ。

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それ。
悟り。
空(くう)。
根源。
至福。
神。

とまあ、色々な表現がされている「それそのもの」な訳ですが、
僕は大体は「それ」とか「それそのもの」って言ってたりします。

ま、こいつの入り口って、実は究極の平凡ですのでね。
自分という観念にとっては、
退屈きわまりない、なんでもないものなんです。

究極な平凡ですので、
名前がつくような特別さが一切ないんですよねー。

なので「それ」なわけです。

 

えー!
「それ」ってもっと至福やと思ってたんですけどー。

至福っていうのは、なんかこう、あたたか〜い何かで包み込んでくれるもんと違いますのん?
ワタシ、そう聞いて育ったんですけど?

だから、「それ」とは至福である。ってゆーてはった偉いおっちゃんの話を聞いて、
こうやって至福を探してますねんけど。

「それ」そのものが、究極のただの平凡さだとしたら、全然至福やないや無いですか!

ってねー。
思ったりするかもしれませんし、
この辺の大きな誤解もあるのかもしれませんねー。

いやね。
至福なんですよ。確かに。

ただ、
なんで至福なのかと言いますと、至福を遮る何かがないからです。
至福とは何もなさやったんですね。
信じがたい話ではありますが。。。

僕らが望む幸せの正体も実は何もなさやったっていうね。
そして、この何もなさであるということが、
受け入れ難くさせてる原因にもなってたりしてたわけです。

でもって、究極の平凡が「それ」であるからこそ、
特別にならんかっても良かったんやん!
何者かにならんでもいいんやん!
っていうね。
安心があるわけなんですけどね。

カシコじゃなくても良くて、アホで良かったわけなんです。

ただね。カシコでも別に良いんですよ。
どっちでも良いんです。

ずいぶん昔なんですけどね。
何かのきっかけで、とある起業系のビジネスセミナーに参加したことがあったんです。
その講師のおっさんが変な人でねー。
「成功するには、低学歴のやつじゃなきゃダメだ!」
「高学歴だったり、大企業に勤めとるやつはダメだ!起業なんかせずにそのままでいなさい!」
ま、一理あるとは思うんですけど、参加者に聞いていくんです。
あんた学歴は?
とか言って、、、
「◯◯(有名)大学です。。。」
『あー!有名大学だね。ダメだそれ!成功しないわ!』

あんたは?
「高卒です」
『素晴らしい!あんた成功するわ!』

何じゃそれ???
って思いながら聞いてたんですけど、
あるグループの中ではカシコなのに、別のグループにいくとこうもカシコじゃない扱いされちゃうのね〜。
なんてね。
思いながら、鼻をほじっておったんですが、、、。

ま、いずれにせよ、カシコだろうがアホだろうがどっちでも良いってことなんですよねん。
だってあるのは、究極な平凡である「それ」ですので。

何にもなさの中で湧いてくるワクワクを表現しとりゃ良いんです。
止めなくても良いし、あえて誇張せずともいいんですけどね。
勝手にちゃんと起こってくれますんで。

いやぁー。寝てたいってのが起こってくるっていうのなら、寝てりゃいいんです。
金儲けが楽しい!ワクワクする!
っていうのであれば、楽しんでがっつり儲けてやりゃいいんです。

誰がやるわけでもありません。

起こったことに勝手に「わしがやった!」っていうのを後付けしとるだけですのでね。

あるのは、命の表現として起こっていることだけやったんです。
誰のものでもなくね。
この表現に判断が加わると、いろいろな解釈が生まれる訳ですが、
そういった解釈を置いておくと、あるのはこの表現だけなんですね。

その表現がワクワクなわけでして、このワクワクが至福と表現されとる訳です。

究極な平凡こそが、判断の加わらない至福やったという訳ですね。

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