「それそのもの」っちゅうのは、究極のシンプルさです。
シンプルじゃないものは何かしらの想念なわけでございます。
わかる!というのは、疑問が消える瞬間の感覚なわけですが、
このシンプルさへの気づきである「わかる!」は説明を必要としなかったんや!
だって、シンプルやから!
ということだったりするんです。
???
はい。
我ながら、なんやこの説明??
ってくらい「わかる!」をわかりにくく書いてしまいましたね。
というわけで、もうちょっと掘り下げて見たいと思います。
僕らってね。
何かが足りないという思いがあるときは、足りないものを埋めようとしますよね。
で、埋まったらよっしゃ!足りた!ということで一件落着となるわけです。
わからない!ってなると、そのわからないを埋めるために、
わからないを埋める内容(こたえ)を探し始めます。
そして、それがうまいこと埋まると一件落着となるわけです。
そうやって今まではうまいこと行ってたように思ってたわけなんですけど、
あるとき、
いつまでたっても「足りない」が完全に埋まることってないやないか!
この苦しみはどないしたらええんや!
人は、なんのために生まれてきとるんや?
人生の答えはどこにあるんや?みたいなね。
言い方は色々かも知れませんけど、
そう行った疑問にぶつかった時、
今まで色々と掴み取ってきた様々な(こたえ)では埋まらないものにぶち当たったりしてね。
そんな時に、
ま、ええか。そんなんどうでも。。。とやり過ごす人もいるでしょうし、
うーん。めんどくさいな。それより楽しいことしよ!っとなる人もいたりね。
いや!絶対にこれを埋める真理というものがあるはずだ!
と探求を始めたり、
探求の途中で、自分が気に入った考え方に一旦納得したような気がして、
それでもう、良くなったり、、、、。
まあ、色々なパターンがあるのかも知れませんけどねー。
結局のところ、
足りないという思いもイメージ上の産物ですし、その足りないを埋める答えもイメージ上の産物ですやん。
っていうことなんですよねん。
そして、人ってどうやら、イメージ上の概念を作り出して、それをつかみ取ろうとするクセがあるんやね。
ということなんです。
このクセがね。
実は今の人類を発展させてきた一つの武器だったりする一方で、
人を迷わせ苦しめる原因となってたりしてね。
で、このクセがクセとして見抜かれる時、この迷いから抜け出ることになるんですよね。
クセが見抜かれるには、一旦クセから離れて見ないことにはどうにもなりませんのでね。
クセの中ではそのクセは無いことになっていますのでねー。
クセが起ころうとしているその、クセのエネルギーを単にそのままにしておいてみるんです。
クセを一旦おいておき、そのまんまに在ってみるわけですね。
ちょっとでもややこしいものは全て想念でございます。
そしてこの想念は、
あるときは、何かしらの足りないものを探して、
あるときは、その足りないものを埋める材料になったりを繰り返しております。
この想念に乗っからずに単に見てみる。
見ないまでもほっといてみるんです。
すると、
わかるために、なにかで埋めようとしとったけど、
足りないを作っとるのも想念なら、それを埋める材料も想念で、
しかも、その想念は単なるイメージでしかなくて、
その想念をほっておいたら、残るのは最初っから「わかる!」だけですやん。
あ、
この「わかる!」が足りているという感覚なんか。
そして、最初っから足りてるんやんか。
足りている中で、足りないと足りたを想念上で繰り返しとっただけで、、、。
ま、こんな説明もどうでもいいわけか。。。
。。。。
てね。
そういう感じな訳です(笑)。
でね。
このクセは別に自分のクセっていうわけでもありませんでしてね。
一つの働きでしかないわけです。
ですので、
あ、今日も元気にクセが働いとるんやね。
って、置いておいてあげたらいいわけでして、
「このクセを滅却するのじゃー!」ゆうて頑張らんでも良いわけです。
なのでね。
真理を探究したいというのであれば、
真理っていうのは究極にシンプルなものですのでね。
ちょっとでもややこしいことは却下していけば良いと思うんです。
ややこしい!ってなったら、一旦ほっといてみるんです。
言葉で表現されることは全てややこしいです。
つまり言葉も全部却下です。
言葉でもなく、なんでもないものが残ります。
その、当たり前のそれ。
それが、「それ」なんです。
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