ヘイヘイヘイ!
むくみには乾燥プルーンが良いらしいですよ!
ゆやゆよん!
というわけで、おはようございます。
タクさんです。
あれってホントなの?
それともウソなの?
みたいなことってどうしても気になっちゃったりしますよね。
ホントにそれって「至福」なの?
でもある人は、究極の平凡さやってゆーてはりましたけど、
平凡なんやっていうのなら「至福」とは言い難いんとちゃうのん?
一体どれがホントで、どれがウソなん?
ってねー。
気になっちゃったりしてね。
はたまた、
高次元の存在は物語なん?じゃあウソなん?
現実世界も物語だということはウソなん?
でも、じゃあなんで物語は起こってるのん?
私、今日、正真正銘、遅刻したんですけど。
嘘偽り無く、大事なアポイント飛ばしてもーて
めっちゃ怒られたんですけど!
これもウソなん?
ってねー。
なんか、それは幻想やといわれたら、その幻想さって、つまりウソってこと
みたいな感じで、よくわからんことになっちゃったりすることもあるかもしれません。
特に、非二元とスピリチュアル的な教えが一緒に語られたり、
瞑想と非二元が語られたり、
ヒーリングと非二元が一緒に語られたりと、
表現者によって色々ございますので、
え!でもあの人はスピリチュアルの中に非二元もあるような表現やったけど違うのん?
あの人の話はウソなん?
瞑想と非二元は関係ないとか言ってるけど、じゃあ瞑想と非二元の関連性はウソなん?
観念とか思考のウソさが明らかになるんです。ってあんたも言ってるけど、
思考や観念はたしかに起こってるわけでして、それのどこがウソなん?
とかねー。
ウソなのか?
じゃあ、どれがホントなのか?
ってね。
気になりだすと、もう気が気じゃなくなるっ!
みたいな感じにね。
なったりしてね。
これね。
思考や観念は確かに起こってるように見えますし、自動的に起こってることにラベル付けも起こるやないですか。
そのラベルは、単にそういった判断が起こってるだけですし、判断以前の判断の元になる感情や認識、経験も起こりますのでね。
それが全部ウソやというわけじゃないんですけどね。
でも、ホントか?というとそういうわけでもないわけでございましてね。
付加されてるリアリティというイメージ。これが、実はちょっとしたくせ者でございまして。。。
このリアリティさというのが、一種の幻想のようなもん。
つまりイメージのようなもんなんですよねー。
で、このリアリティさにこだわるクセが何処かにございまして、
それが、ウソか?ホントか?と探るわけなんです。
でも、ウソとかホントとか。。。
そんなんもないんですよね。
リアリティーさがホントのように見せている。というわけです。
と同時にホントがあるからウソもある。みたいな概念も生み出しとるわけでしてね。
世界最初の映画は、汽車が駅に入ってくる映像やった。
この映画を始めて観た観客は、汽車に轢かれる!と思い、
映画館の中で右往左往しながら逃げ回った。
みたいなね。
都市伝説っぽい有名な話があるわけなんですけど、
これは映画のスクリーンに映る汽車にリアリティーが付加されとったんですよね。
ま、この話自体がウソかもしれんということですので、ややこしいことになるんですけど。
今なら、バーチャルリアリティーのゴーグル付けてる人が、とっても高い場所を歩く映像を見てる途中に、誰かが後ろから押すと、押された人がめっちゃビビる。
みたいな感覚ですかねぇ。
これは、ゴーグルの中に映る映像にリアル感を付与しとるわけですね。
ま、そんなわけで、起こることに判断を付け加え、そこにリアル感を付け加えとるというわけでしてね。
そのリアル感が、なにやら、ウソとホントという概念を作り出してたりするわけです。
ウソとか、ホントっていうのも後付けされた想念のようなもんであって、
あるのは、その想念以前の、「在る」しかないよね?
ってことなんです。
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