Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

起こっては消えていくものは、あなたではない。

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それはー。
まるで線香花火のようにぃー。

火花がパッと光っては散っていき、パッと光っては散っていく。

あらゆる思考や感情もそのように起こっては消えていきますが、
実は、自分の身体や心も例外じゃないんですよね。

つまり、自分だと思っていた全ても、パッと光っては散っていく一瞬の閃光と同じだったんです。

そして、自分だと思っていた全てが消えても、
あなたが消えて無くなる訳ではありません。

感情や思考、身体の感覚は起こっては消えていきますが、
それはあなたではなかったんです。

 

身体や感情、思考が連続してあるように見えてたりもしますが、
これも後付けで、パッパッパと光る閃光を概念上でつなぎ合わせてるだけなんです。

あらゆることが起こっては消えていっている中でも
変わらずに在るもの。
全てを含む土台。
それが、「それ」なわけです。

起こっては消えていく閃光が「それ」に気づけるはずもなく、
その閃光に主体性がある訳でもないんです。

主体性があるような思いも一つの閃光として起こっているだけだった訳です。
なので、常にあるように思いがちですが、実は起こっては消えていく閃光だったんですよねん。

そして瞬時にそれらを関連づけているわけです。
習慣化されたり自動化されてたりもするわけなんですよねー。

つまり、私という観念もその閃光が光っている間だけ有るように感じているだけだったりするわけです。

パッパッパと光る閃光に、習慣が自動処理で意味づけをし、それを掴むことによってリアリティーを生じさせておりまして、
その間だけ、それが現実のように感じられているだけっちゅうわけです。
これを時系列に観察することはほぼ不可能で、時間という概念も閃光に後付けされた観念なわけなんです。

なので、単に起こっているだけ。
そして、その起こっていることに意味はない。

なんて表現がされたりするんですよねん。

ん?
そうなんか?意味はないのか?
みたいな思いも、一つの閃光として起こるかもしれませんが、
それもまた、意味のない閃光の一つです。

全てを含む「それ」の中で、
閃光が命の表現として輝き、消えていく。
それはシンプルで、意味にとらわれることがないからこそ奥深く、
分離がなく、ひと続きであるがゆえに親密なんです。

その中で、どんな解釈が起こってもいいし、
それを裁くような誰かもいないんですよねー。

地獄の番人であるえんま様って、
それらを裁く自己のことだったのかもしれませんね。

そして、そのえんま様の奥には、
裁きも判断もなく、判断がないからこそ一つであり、分離のない
親密さの中で全体であるイノチがのびのびと表現をする。

その閃光の輝きだけがあるだけでねー。

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