Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

精神世界と物質世界?

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あーーー。
最近、サウナいってないわぁー。

好きだった新宿のサウナも知らない間に潰れてました。
最近はスーパー銭湯人気でサウナはあまり流行らないのかしら??

一番お気に入りのサウナは京都の四条大宮にある
大将軍というサウナです。

昭和のバブルのオッサンをターゲットにしたかのような内装と焼肉が食べられるのがサイコー!
まだあるのかな?あのサウナ。

次点は錦糸町の楽天地サウナです。

 

と、いうわけでおはようございます。
タクさんです。

さて、こんなブログを書いてる私ではございますけど、
自分はスピリチュアルなことを書いてるつもりって全然ないんですよね。

っていうか、自分はスピ系とは全然違うやろって思ってたりするんですけど、
やっぱり非二元の話ってスピリチュアルなんでしょうかねぇ。

結構こういうはなしをスピリチュアルの延長線上で語る人もおられるのでそういう誤解もあるのかもしれませんね。

スピリチュアルが精神世界だとしたら、スピリチュアルじゃない日常は物質世界となるのかもしれませんが、
僕はそのどちらもが単なるこじつけ?のようなもんですやん。
って思ってたりします。

精神も物質もなく、あるのはあえて言えばイノチのエネルギーの表現だけとちゃうのん?
無機質に見えるものも有機的に見えるものも一緒やん!イノチのエネルギーやん!
ってね。

ま、イノチっていうのもある種の概念ですので、
表現があるだけ、その表現=(イコール)イノチやん。

って思っとります。

そして、それがそのまんまのあるがままなんですよね。

そこにどんな世界観を付け加えようが自由な訳ですが、
その世界観に囚われる必要は全然ないわけでしてねー。

もし囚われてるのだとしたら、
その世界観にリアリティーというスパイスが振りかけられとるからな訳でしてね。

そのリアリティが、深刻さをと囚われを生じさせとるんですよね。

ま、その囚われが外れますと、深刻さも最初から無いんやんか。
ってことが見抜かれますし、
そうなったとしても普通に今まで通り起こることが起こるわけですが、
それは、別に物質世界でもなけりゃ、精神世界でも無いわけでしてね。

なので、
「私は物質世界から目覚めて、スッピリチュアルな世界で生きているのです。エッヘン♪」
って言ってはる人がいたとしても、物質世界も精神世界も一緒やで。ってことですし、
「スピは幻想やー!」
ゆーてスピリチュアル批判が唯一の生き甲斐のように騒いではる人がいたとしても、
ええやん別に。他人が好きでやっとることに何を騒いでるん?暇なん?
ってことなんですよねー。

そして、どんな世界で生きてようとそれは一緒の「それそのもの」ですので全然良いわけですけど、
その世界に何かしらの窮屈さを感じているのであれば、妙な深刻さがちょっとしんどいのであれば、そのリアリティは想像上のスパイスにすぎないのかもしれないですよ?

てなことを見てみても良いんじゃ無いかなーと思うわけです。

というわけで、冒頭のサウナ話で例えてみるとしますと、

あっついサウナは最初は気持ちいいかもしれませんけど、
どんどん熱くなってしんどくなってきます。
そして、くはーっ!熱い!となって、次は水風呂に飛び込むわけです。

すると、最初は
カッー!きっもちええのーぅ!となるんですけど、
どんどん寒くなってきます。

でまた、サウナに入り!
カーッ!身体が巡りめぐるわー!
ゆうて楽しむわけですけど、

「それそのもの」とは、
サウナでも水風呂でもなく、それらに入る前の普通の状態のことですね。

厄介なのは自分がサウナという観念の世界に入っとることに気づいてないってことかもしれませんね。
赤ん坊の頃はサウナに入る前の当たり前の状態やったわけですけど、
観念の世界の中だけが世界になってしまうと、記憶にないものは無いこと担ってしまいますのでね。
でもって、記憶に残るのは観念ですのでね。

よく、「それそのもの」は最初からあって、それを思い出すんです。
みたいな表現があったりしますが、思い出そうとして記憶を探ってもそこには無いんですよね。
なぜなら、記憶に残るのは観念だからというわけだったからなんですねー。

観念の中では、観念という手がかりなしでは何もつかめないように感じたりしますが、その手がかりの必要性がなかったことの気づきなんです。
その気づきは、「あ、それ、前から知ってた!」という気づきだったりするんです。

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