Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

なんで真理は、探しても見つからんのやー!

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なんで真理は、探しても見つからんのやー!
って言いますと!それは、あんたがすでにそうやからや〜!

というわけでおはようございます。
タクさんです。

自分以外のどこかに、足りないものを補う何かを探し求めてるのって、結局のところ自分を過小評価しとるからやと思うんですよねん。

もうすでに足りてますので、探さんでも良いですし補う必要もないんですけど、それ以前に、世界を把握するには自分の周りの何かを固定化して掴みとらなあかん!
っていうクセがありますのでね。
これはある種の生物の本能なわけですが、この本能に自分を重ね合わせて認識しとるもんですから、世界は常に危険で、自分を守らなきゃ全てを失ってしまう!
っていう誤解が生じとるわけです。

 

さて、そうなると、
ならば、思考や感情に振り回されるっていう事が原因で、そのせいで探求を繰り返してしまうんやな!
っていう思いに至るかも知れません。
一見、合理的な方法論にも見えますよね。

自分への癒しとして、受け入れられない自分を発見し許してあげる。
思考や感情と距離を置く瞑想や座禅をしてイマココにリラックスする。

よくある方法論はこんな感じですね。

僕はこの方法論については全然否定はしません。
むしろ良いことやと思います。

僕もまずは自分のコトを幻想の価値観で裁くのはやめたらよろしいやん。
しょーもない。
みたいなコトをよく書いてますし、
正直、価値観を頼りにせず、意味や理由や目的に縛られず、単に沸き起こるやりたいコトを、その衝動に従ってやってたらええですねん!
みたいなコトを書いてますし、
悟りだかなんだかを追い求めるよりも、単にそうしとったらめでたしめでたしですやんっておもってます。

でも、
思考や感情と距離を置くことに躍起になって、思考や感情をないがしろにする。
あってはイカンものとしてしまうのでは本末転倒ですし、
瞑想の方法論や、伝統、マスターの存在。
みたいな物語にのめり込むのと、
イマココにあるそれそのものとは全然違う話ですよん。
ってことなんです。

また、癒されてない自分についても、それがあってはイカンものとして排除しようと躍起になるのも本末転倒でございまして、
そんな自分をアカンとしている判断の方が違うやないのん?
あってええやん!カワイイやん!
ってことなんですよねー。

思考や感情や、自分という観念に、あまりにもハマりこんでるのだとしたら、距離をとって落ち着いてみたら良いんですけど、
そういうのがあってはイカンと言うことでは全然ないですのでね。

そういうのがあるっていうのが、もうそのまんまのそれそのものですしねー。

で、あってええやん!カワイイやん!
ってなりますと、もうそこにフォーカスする必要性が失われていくわけです。

すでに目の前の全て、経験の全てが、それそのものなわけです。
その中で、固定観念によるフォーカスをしてる時だけ、フォーカスによって生じる分離を見てるわけです。

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