Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

行為者というクッション

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暑くなってきましたねー。
オッハようございます。タクさんでございます。

夏はね、結構好きなんです。
でもここ数年の夏は暑すぎますね。
イノチの危険があるような暑さはちょっと勘弁でございますなぁ。
小春日和、日差しは温かいけど風は涼しい。
って感じが一番いいですよね~。

さて、今日は行為者というクッションをテーマにして書いてみたいと思いまするですぞ!

 

いきなりですが、
あなたは自分の目ん玉を見ることはできませんよね?
自分の髪型だってどんな感じになってるのかはわかりません。

確かめて見るには鏡などで一旦反射させて確かめて見なきゃわからんわけです。

ま、鏡に写ってる自分って左右逆ですので、厳密には自分の姿って見たつもりになっていても絶対に見れないんですよねー。

ま、話がちょっとずれましたが、
「それそのものを見る」
っていうのも、この鏡を見るっていうのとちょっと似てるかもしれません。

本来は「それそのもの」しか無いわけです。

つまり、自分だと思っているものも、自分じゃない目の前の景色も「それそのもの」ですのでそこに境界はないんですね。

一つであるとも言えるのかもしれませんけど、一つという数字で表されるようなものでも無いわけでございましてね。

「在る」だけ。

ってことなんですよねー。

で、その「それそのもの」の中の何かを掴みたい。となると、
クッション的な媒介が必要になるんですね。
ワンクッション挟む、ってことです。

掴むからには掴む主体者と掴まれる客体が必要になってくるわけです。

あくまでも概念上でね。

そうやって、掴む主体と掴まれる客体といった概念とともに何かが掴まれるわけです。

本来は主体も客体もなくただ起こってるだけなんですけど、
概念上では、風を感じる自分。みたいな考え方が脳内だけで展開されるんです。

この展開されている脳内の物語のことが幻想だと言われているわけなんですよね。

どんな幻想をしてようが、起こってることは変わりなく起こっているわけです。

そして、この脳内の概念化は、生存本能がやってるんですよね。

つまり幻想をつかもうとするのはあなたという行為者がやってるわけじゃなく、
ある種の自然現象なわけです。

この行為者という概念が、自分がなにやら「悟り」のようなものを理解しようとすることで、
妙な誤解が生じるっちゅうわけです。

で、この行為者という概念が、生存本能とくっつくことによって、自己という概念が生じるんです。
このくっつく感じが「執着」と呼ばれるもんなんです。

くっついとるので、思考や感情や身体の感覚とかありとあらゆるものも「自分」だと認識しちゃったりするんですけど、この「自分っていう行為者はおらんのですよー」って言うメッセージは、この行為者という概念のことなんです。

この辺が誤解されると、思考や感情、さらには身体の感覚さえも抑え込もうとする修行があったりするのかもしれませんね。

もちろん、単なる行為者という概念が、身体や思考にくっついておるということに気づくための方法として最初は始まったのかもしれませんけど、それをずっと抑え込むということじゃなくて、単に気づくだけの話ですのでね。

わからんままにしてみると良いですよー。
というのも、
何かを掴み取ろうとするエネルギーが、掴み取るを成立させるために分離の概念を作り出しとるだけですのでね。

わからんままにしたろうとすると、
「きゃー!わかりたいー!」って言う衝動が出てきますので、
お!この衝動がこの分離のエネルギーやというわけか!

って気付けるわけでございます。

もちろんのことながら、行為者なんていてませんので、たんに気づきがあるだけなんですよねん。

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