Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

何にもなさは振る舞うもんじゃないんですねん

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「なんにもなさ」っていうのは、「なんにもなさ」であるがゆえに「全て」である。

ゆーてねー。
なんともややこしい表現ですね。

無いというわけでも、有るというわけでもない。
ただ、在る。
って感じなんですけどねー。

それは単なる明らかさなわけです。

でね、
この明らかさがなんになるねん!
って言いますと、なんにもならんのです。

ただ、どうなるのかといいますと、
今まで当たり前に優先順位第一位!だった考え方。

原因があって結果がある。

という考えが、宗教と同じような一つの信念でしかなかったんやん!

っていう気づきがあるわけです。

するとね。

原因や結果に対していちいち恐れずにすむわけなんですよね。

もちろん、自分という概念はそれを怖れるんですけど、
同時にそれは、単にそう起こっているということが明らかなんです。

くっはー!
ややこしいですね。

 

というわけでもう少し掘り下げますと、

自分っていうのは実際には何を指してるのか?
というと、実は非常に曖昧やったりするんですよね。

自分って何??

って聞かれると、それにどんな場合でも合致する答えってなかったりするわけです。

身体だったり、心だったり、信条だったり、性格だったり、、、
時と場合によって自分を指し示す定義はコロコロと変わるわけでございましてね。

でもって、
身体も、心も、信条も、性格も、、、

こちらの方も、時と場合によって変わるわけなんです。

身体は毎日調子は変動してますし、
信条だって、生まれたときからあるわけじゃないですしね。

性格だって人との関係性でコロコロかわるもんです。
仕事中と、プライベートでも変わったりしますからねー。

指し示す定義も変われば、指し示されたものもコロコロ変わる。
でもそれらがひとカタマリで「自分」だとまとめられとるだけでしてねー。

まるで、色々と移り変わる天空の模様を、空という言葉一つで定義している。
みたいなね。

そんな感じでしょうか?

もちろん、固定化された空というものはどこにも存在しないのと同様、
自分という固定化されたなにかも無いわけなんです。

空という呼び方が、単なる概念的なもので、実は空なんてもんはないよね?

と同じく、

私とか自分という言葉も概念的なもので、実は自分なんてものはいてませんよね?

っていうことなんですよね。

また、同様に、それなら、全ては流動し関連しあい変化しているわけですから、全てのレッテル化され、固定化された言葉だって、全部それは単なる概念ですやん!

ってことになるわけなんですよねー。

今まで通り、定義された元である
身体のような現れ、
心と言われていた現れ、
感情と表現されていた現れ、
性格と呼ばれていた現れ、

これらは変化の中の現れとしてとして、今も変化の中で現れておるわけですが、

そういったものには固定化された何かは無いわけです。

これは「自分」だけでなく、全てにおいてそうなんですよね。

で、それは最初っからそうやったんや!
という気づきであって、何かが変化するわけじゃないんです。
単に忘れとったといった感覚ですかね?
ま、そう書くと感覚を体験する誰かがおるのか?って話になりますが、
感覚にその行為者が必要やと思ってた誤解が解けますのでね。
単に感覚が起こるだけでございます。

でもって、自分として定義づけしてるつもりだった、
あらゆる現れはなんら変わりなく起こり続けるわけです。

なので、何も変わることもないわけです。

ただ、変化の現れを固定化した世界の中だけが全てだと思っていた誤解が解けるので、自由!って感じなんですよね。
ま、それも最初から全ては自由であり、
それでいて分離がないわけですので、完全な調和なんです。

でもって、それが明らかになったからといって

私がいないフリをする必要もなく、何かに悟ってるフリをする必要すらないわけです。

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