Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自己否定はそのまんまに愛でてあげる。

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ここでたまーに言ってる自分を愛してあげるっていうのって、自分を甘やかしてあげるっていうのともちょっと違う感じなんですよねー。

悪い部分を無理くりフタして良い部分だけをフォーカスする。ということじゃなくて、
自分の悪い部分。

ホントは悪くなんてないんですけど、自分が否定している自分。
それをね。
やさしーく迎え入れてやるって感じです。

自己否定があると、そういう否定された自分が出て来ると、
ササっと蓋をして閉じ込めちゃおうとしちゃうもんなんですけどね。

それをそのまんまにしておいてあげるんです。

 

暗くて重た〜い気分もそうです。

そういう気分が出てきても、
そのまーんまに表現させてあげる。

重く暗い自分でいなきゃならん。というのとはちょっと違って、
そういう重た〜いが現れるがままにしておいてあげる。
否定せずにね。

この最悪なのが自分なんだ!と卑下して認めなきゃならん。
というのともちょっと違って、
自分とは関係なく、そういった思いがただ出てきたがっておるんやねー。
って見てあげるって感じですかねー。

なんか、何かに気づけばこの不快な思いが起きなくなるんじゃなかろうか?
なんていう考えがあったりしてねー。

で、この不快な思いを滅却しよう!とか、起こらないようにしよう!
みたいなね。

そんな思いから思考から距離を置く瞑想に励んで見たり、
不快さを癒す行為をして見たりする方もおられると思うんですけど。

それはそれでもちろん素晴らしいことなんですけどね。

思いっていうのは起こってきますからね。
どんなことも起こってきます。

そして、起こって来ることには何の変わりもないんですよ。

ただ、その起こってることに蓋をして閉じ込めようとするから
妙な抵抗感を味わうわけなんですよね。

これって、実はできないことをしようとしてるんです。
で、結局思い通りにいかないわけなんですよねー。

そして、この思い通りにいかないこと。
それが「苦」の正体ですからね。

苦っていうのは不快な思いの中にあるんじゃなくて、
そういった思いをかき消そうとする行為自体のことを指してるんですよね。

なので、
私はいない
っていうのを妙に解釈しちゃうのも的を外してるんです。

私はいないからこの思いもニセモノだと思い込もうとする。
みたいな感じでね。

思いに対して不感症になる。
みたいな感じね。

こういう誤解も結構あるのかもしれませんけど、
そうじゃないんですよねー。

不感症になるじゃなくてもっとダイレクトに受け入れる感じです。
思いのままにね。

思いのままダイレクトに受け止めるというのは、妙な判断を通さないってことですのでね。

なので、「思い」ですらなく、感覚そのまんまですね。

もちろんあらゆる思いや起こって来ることに対しては好き嫌いがありますので、
嫌やったら避けようとします。

ただ、それに蓋をして押し込めようとか、
ないように振る舞おうというのではなくてですね。

単にあるがままにさせておくという感じなんです。

実はどうあがこうと、あるがままに在るんですけどね。
単にあがいていただけ。っていうことが明らかになるだけなんです。

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