Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

なんの虜になる必要もない

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物事を捉えるには、何かしらの物差しが必要になるんですけどね。
そうやって物差しを使って、何かを無意識に判断していくうちに、
その物差しの存在がいつしか無意識になっていって忘れとったりするんですよねー。

で、いつしか判断する道具だった物差しに逆に支配されちゃってたりしてね。

 

よくこういった話で、この物差しが悪い!
っていうか、この物差しを手放さなきゃならん!
みたいな捉えられ方をする場合があるんですけど、物差しは全然あってもいいと思うんですよ。

ただ、この物差しがあることを忘れてしまってたとしたらねー。
見てあげることで、その物差しが見えてきますよ。っていう話でしてね。

あっても全然いいけど、この物差しに支配されちゃうとしんどいんですねん。
ってだけでして、単に道具として物差しを使ってあげたらいいんです。

儀式に縛られる必要はないですけど、儀式を楽しむのは全然オッケー!ですし、
社会に縛られる必要はないですけど、社会的に生きるのは全然良いわけですし、
ルールに縛られる必要はないですけど、ルール上で楽しめば良いですしね。

ルールが無いなら人を傷つける行為とかもいいの?っていうような批判がたまに聞こえてきますけど、
そういう行為ってのも、縛られてる抑圧から起こっとるわけでしてねー。
ルールを無視して傲慢に振舞うといったことでも全然ないんですよね。

こういった物差しを固く握りしめてて、さらにその物差しが、単なる物差しでしかないってことを
忘れてたりすると、
固定観念が強まってきてたりするんですよね。

こういった固定観念が、自分に向いた時は、
妙な罪悪感だったり、不自由な感覚として受け取られたり、
妙な心の重さとして感じたりするかもしれません。

そしてそれが他人に向いた時は、
他人や社会に対する批判からくる怒りになるかもしれません。

冷静な批判は全然いいんですけど、たまに批判に取り込まれて、
自己陶酔しちゃってるパターンとか、
しまいには怒りに巻き込まれちゃってるパターンとかもあったりするんですよね。

物差しにはもともと何の力もありません。
この物差しに力を与えてるのは自分自身の観念やったんですねー。

物差しを手放そうとするのも、もしかしたら、何か別の物差しによる差し金かもしれませんのでねー。
そんなたいそうなことをしようとするよりは、
単に見てみたらええんですね。

単なる何の変哲も無いモノに、
これは伝説の勇者、ロトが使ったありがたーい剣なのである!
っていう観念がひっついてくると、
ロトの剣!になったりしてね。

例えが変ですね。

ま、物々交換の道具であるお金に妙な安心感を求めたりしすぎると、
こちらが使う道具だったのが、逆に道具に支配されちゃう。
って感じですかね。

そして、それをしてるのも自分っていう皮肉さ。

それが独り相撲ってことなんですけど、

お金もそれ自身では意味のない単なる道具だとしたら、
自分で作り上げた物差しも単なる道具でしかないわけなんですよねー。

こういった何の力もない物差しに力を与えていたことを
単に見てあげるとね。

この物差しにキュッと意識を収縮させてた部分がふぁっと溶けてくるんですよねん。

心と体は同じものですので、収縮さが抜けてくると、心も解放されるのと同時に、
知らない間に力を入れてた体の方もふぁっと力が抜けてきてくれます。

頭の中心とか、胸の奥とか丹田とかが、ふぁーっと緩んでくれるんです。

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