Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

観念上に持ってきちゃう悟りのお話

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悟りっていうお話はね、
知らず知らずのうちに信じ込んでいたルール。
すなわち観念には、実は実体がないっていうこと。
そしてその実体のない観念を取り除いていくと
元々最初っからあった「それそのもの」が姿をあらわすんですよん。

てな話なんですけどね。

そもそも僕らの理解というプロセスには、
なにかを観念化、概念化して仮定の設定を作り上げ、
これらの概念を組み合わせて掴み取る。
っていうね。
そういう癖が根強く残ってたりしてましてねー。
そういった癖でもって理解をしようとしちゃうわけなんですよね。

 

で、いつの間にかそういったプロセスで作られてきた観念や概念を
真実として、受け止めているわけです。

なので、
こういった悟りとか、非二元の話も自然に観念上に持ってきちゃうわけなんですよね。

で、概念上に持ってきた話について、

意味がないなら何にも頑張れなくなるじゃないか!
生きてる意味すら失ってしまうのか。

みたいな捉え方をする人も中にはいるかもなんですけどねー。

これも、
いやいやいや、、、
観念にとらわれなかったらそのまんまが残りまっせ。
っていう単純な話を、
その話ごと観念として持ってきてどうすんのよー。

って事なっちゃうわけなんですよぉ。

なので、こういった話をわかろうとしても無駄ですし、
わかろうとすればするほど、ハマります。

何年も何年も修行を続ければ徐々に到達できる。
っていうものでもありませんので、
逆にそういった修行を続けてきた自負が、邪魔になったりする場合もあるんですよねー。

なんでハマってしまうねん?
と言いますと、
そもそも無いもんを探しとるからなんです。

見事な形をした「雲」を探す旅。
のようなものかもしれませんね。

一瞬、見つけた!と思ったとしても、
雲は形を変えてしまいますのでね。

あれぇ???
確かに見つけたはずなんだけどなぁ??
ってなるんですよね。

もちろん、心を鎮める瞑想とか座禅っていうのは、
とっても良いものだと思います

いつしかクセとして染み付いてしまった感情や心への同化を緩めてくれたりしますのでね。

生きてると色々と大変なこともあるじゃ無いですか。
そんな蓄積された思い込みのクセ。
特に自分を苦しめるクセをね、緩めていくのにも
まず、それを見てみないと話になりませんのでね。

見てみるためには、同化してることに気づかなきゃいけませんし。
その方法として瞑想とか座禅とか。
はたまた癒しのテクニックがあるんだと思うんです。

それはそれでとっても良いことですのでねー。

ただ、その先に「悟り」とかいった何かがあるわけじゃ無いですのでね。
そして、瞑想とか座禅も
ただリラックスして座る。っていうことですし。
そこに作法も何かしらの伝授も、本当はいらんのですよね。

ただ、なかなか単にリラックスするだけっていうことでもね。
観念へのとらわれがクセ付いてしまっている場合には難しかったりするんですよね。

そういう場合の、なんていうかエネルギーの調整みたいなもんとして、
色々な事が行われてたりもするんやと思うんですけど、
いずれにしても、
何かを理解してマスターするもんじゃないわけですからね。
なので、誰かから授かるものでもないわけです。
そうなると、まずは自分で見てみないと始まらないですのでねー。

見てみるのがスタート地点な訳です。
で、見るものと見られるものが溶け合うと、
単に明らかになるだけですので、、、

スタート地点に立つには、
手に入れてきたものへの自負も邪魔になります。

なぜなら、見てきたものも聞いたことも、
手に入れたものも、覚えてきたものも、
ぜーんぶデタラメやからなんです。

デタラメというのは、誤りということじゃないんですけどね。

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