Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

我思う、故に我あり???

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「我思う、故に我あり」
ってねー。有名な哲学の言葉がありますよね。

でも、ちゃうやん!
思う。っていう経験は確かに在るけど、それをやっとるのは自分っていうのは、単なる推論やん!
ってねー。
思うわけです。

なのでね。
このことをもっと正確に言うとすると。

「思う」

以上。

ってなるんちゃうん?

ってねー。思う今日この頃です。

なんか、そんなん書いてたら、
哲学者の人にめっちゃ怒られそうですけど。。。

 

さて、
ありとあらゆることを、ぜーんぶ疑ってみるとするじゃないですか。
今までこさえてきた観念をね。

すると、「我思う」が残ってくると思うんですよね。

思う以前に、自分っていう意識っぽい何かが在るわけなんですけど、
その「在る」が「それ」であって、「それ」は全てなんですよね。

自分とか私ってねー。
その時々によってガンガン解釈が変わって行くわけですよね。
なのでややこしいんですけど、

考えているときは、
その思考が自分ですし、

アタマ掻いてるときは、
身体が自分ですし、

感情が湧いてるときは、
それが自分に起こってますしね。

でもって、
あの人もこの人も、
あの景色もこの景色も、
あの音もこの音も、
ぜーんぶ自分の中にあるわけですよね。

分離感さえも、自分の中にあるわけです。

となりますと、
今まで一度もこの自分から抜け出たことはありませんし、
抜け出ることもできないわけです。

そして、そんな自分の中に、
自分の外がある。
みたいな観念もあるわけですね。

ぜーんぶ自分の中で起こっとるわけです。

じゃ、自分はどこにあるのん???
って言いますと、
全てを理解し、捉えるために概念的に作られた中心点のようなものでしかない。
ってことが明らかになってくるかもしれません。

ないんですよ。
自我なんてものも、自分なんてものもね。

自分とか、私っていうのは、
何かを捉えるための道具のようなもの?
概念的な前提ルールのようなものなんですよね。

在るのは命の表現である変幻自在だけ。
この変幻自在のな中で何かを捉えようとするならば、
そこに分離が必要になるわけなんです。

この分離の概念が自分というもんであってねー。

その自分が
時には「考え」になり、
時には「身体」になり、
時には「感情」になるわけで、、、

そりゃ、変幻自在ですからね。
色々と変わるわけです。

毎回毎回、何かを捉えて理解してるから、
その大前提の「自分」っていう観念も染み付いちゃってるだけなんですよね。

目の前の変幻自在さ。
それが、「それそのもの」ですね。

その「それそのもの」の中で、何かしらの解釈を通して「それ」を見たときだけ、
その解釈を通した世界が見えてるわけです。

この解釈を良くしようとか、どうにかこうにかしようとするのが、
「引き寄せの法則」とかだったり、成功哲学だったり、
ポジティブシンキングだったりするわけですけどね。

いずれも、単に解釈を見てるだけなんですよね。

この解釈に意味はなく、良し悪しもないわけです。

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