Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

悟りの理論について

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悟りの理論みたいな話があるじゃないですかぁ。

これはこういうことなんです。
なのでつまりこうなんですー。

みたいなね。

たとえば、
「私はいません」
みたいなもんね。

あれって、ホントに「私はいない」っていう話じゃなくて、
「私はいるでもなく、いないでもない。」
っていうことですのでね。

変な話、「私はいない」っていう言葉はものすごい矛盾を孕んどるわけなんです。

 


この言葉が成り立つには、「私」はいなきゃならんのです。

どういうことかと言いますとね。

「ウンコはない!」

って話はウンコがなきゃ成り立たないわけじゃないですか?

ちょっと例えがおかしいか、
じゃあ、

「ズンドコベロンチョなんてものは存在しない!」

っていうことですね。

まず、何それ?
やないですか。

ズンドコベロンチョ???
知らんがな。。。

って感じですよねぇ。
それがあるとか無いとか言われても、、、
知らんやん!
ってね。
なるやないですか。

それと一緒なんですよ。
「私はいない」っていうのもね。

結局、こういった話ってのは、知らず知らずのうちに信じていていた観念。
この観念のウソさが明らかになるってだけの話ですので、
何やら私というものが在る。と思ってる人に向けたメッセージが
「私はいない」
であって、
ズンドコベロンチョは存在する!と真剣に思ってはる人に向けては、
「ズンドコベロンチョはない」
になるだけですので、
最初っからなーんもないわけなんですよねー。

何もない中で、全てが起こっとるわけです。

この辺は言葉にできませんけどね。

イノチの喜びがあるわけです。
喜びが喜びとして表現されとるわけです。

特定できないので、何もないわけですが、
それと同時に絶対的に存在しとるんですよね。「それ」が。
だから、みんな、自分の存在感ってどこかで感じ取るわけです。

ホントは自分の存在感じゃなくて、ただ存在感!なわけですけどね。
あるのは、その「それ」です。
それがイノチであり表現なわけですね。

つまり、「それ」に理解はいらんのです。

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