Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分を愛する責任

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罪悪感とかね。
そういうのって、必要ないんですけどね。
なので、責任っていうのも、本来はないもんなんですよね。

でも、あえてね。
本当は無いにしろ、ひとつだけ責任みたいなもんをあげて見るとするならですねぇ、
それは、自分を愛する責任なんじゃないかな?なんて思うわけです。

 

他人を大事にするとか、
仕事をしっかりやるとか、
目標を達成するとか。。。


そういうのも全然いいんですけど、
それ以前に自分を大切にすること。
そして、自分を愛すること。
それがまず最初なんじゃないかなってねー。

自分を愛するなんて、
なんて利己的な!
ってね。
思うかもしれませんけど、それは誤解なんですよねん。
それよりは、利己的とは全く逆なんとちゃうか?って思うんです。
もし、自分自身をしっかりと大切にしてあげられてて、愛することができとったとしたらね。
自分をまず信頼できますのでね。
利己的にはならんのです。
何かが欲しい!みたいに必死にならんでもよくなるんですよね。
だって、足りてますからね。足りてるっていう信頼がありますからねー。

また、
カルマを解放するとか、
未消化の魂を癒すとかね。
そういうことも必要なくて、
カルマも自分の中にあるのだとしたら、それを大切にいたわってあげる。
といったね。
そういうことなんです。

起こってることは、もうすでに「それ」そのものですのでね。
そりゃ、そこにいろんな解釈が出てきてたりしますので、その解釈が「それ」ってわけじゃないですけど。
起こってることへの抵抗があらゆる摩擦を産んだりするんですよね。

悟ることによって、今の自分とは違う本来の自分を目覚めさせる。
といったことじゃなくてね。
そんな隠された、本当はすごい自分ってのはいないわけですよね。

ただ、ダメだ。足りないっていう架空の思い込みの方があるだけでね。

今の自分がもうすでに本来の自分なんです。
まずはそこを愛でてあげないとねぇ。
始まらんっておもったりもするんですよねー。

そのすでにある自分が許せてないときだけ、何かしらの抵抗が起きるわけでして、、、。

そうなると、許せてない分だけ愛せてなかったりするんですけどね。

この許せてない理由ってのが、無意味な観念だったりするんですよね〜。

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