Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

今ここの悟りへの到達方法

f:id:takuteto:20170422022037j:plain

このブログでは、度々、「それ」への到達方法なんてもんはありませんよー。
なんていってたりし、
一瞥の体験とか、いろんな体験も単なる体験であって関係ないですよー。
なんてかいてますが、そうはいっても、体験がない限り先には進めないし、
まずは体験でしょ!
みたいに思ってる方もおられると思います。
はたまた何かしらのプロセスみたいなもんは、やっぱりあるんでしょ?
って思ったりもするかも知れませんねー。

というわけで、今日はこの辺のことを書いてみたいと思いまーす。

 

なんで「それ」の体験とか方法がないねん?
って言いますとね。

簡単にいうと、もうすでに「それ」やからってことになるんですけどね。

えーいっ!
んな事は何度も聞いとるんじゃー!
せやけど、わからんのじゃー!

ってねー。
思いますよねー。

これ、
どういうことかと言いますとね。

まず「それ」ってなんやねん?
っていうね。
その正体のことを考えてみたら良いのかも知れません。

正体って、、、、
何も無いんとちゃうのん?
あんたいつも何も無いとか全部とか言ってますやん。
ゆーてねー。
言われるかも知れませんけど、

もう一個、
よく言ってるのがありますよね。

「それ」とは、「あるがまま」なんですよー、ってね。

そう。
「それ」とは、「あるがまま」なんです。

で、あるがままって何やねん?っていうのが、
なんもない、とか、全部とか、愛そのもの、源泉。
っていうわけです。

で、もういっこ、
「あるがまま」とは、「今ここ」なんです。

全ては、「それ」ですので、
今ここは、全てであり、
「それ」しかないわけですから、「今ここ」しかないわけなんですよね。

というわけで、
じゃあ、この「今ここ」を見てみたら良いのかもですよ。
どんな感じでしょうか?

今ここって、今ここな訳ですから、目の前の世界ですよね。
目の前の世界。見てみてください。

どうでっしゃろ?

「おっさんが眠たそうな顔して歩いとるわ・・・」
「あ、、、鳥の鳴き声・・・」
「車が通る音がする・・・」
「風邪が吹き抜ける音と風が頬に当たる感触がする・・・」
「ん、、、おっさんどっか行ったな・・・」
「だれや、遠くでギャーギャー騒いどる声は・・・」
「鳥、、、飛んでったな・・・・」

みたいなね。
そんな目の前の世界が繰り広げられとるかもしれませんけど、、、
これらのレッテルを全部取っ払ってみると、、、

ん・・・?
変幻自在の今だけが在る。

って言うわけですね。

そして、それを観ている自分という感覚も取っ払ってみると。

変幻自在・・・のみ。。。。

全て(諸行)が、変幻(無常)している。

諸行無常。

この中で何かを掴み固定化した時だけ、観念があらわれる。

そう見なしている現実。

観ている自分という観念。
これは、風。
あれは、おっさん。。。

でも、それらはそう見なしているに過ぎず、
いつも見なしていたからクセづいていいるだけであって、
あるのは、変幻だけ。

掴まないということは、わからないということ。
そこに、観念化しようとするエネルギーが、何かをわかろうとしている。

観念を頼らない、ありのままのそのまんま。

それが、今ここで目の前に広がっているそのまんまの世界。。。

わかろうとするから観念を作ってその観念の中で理解しようとしていただけっていうねー。
その一人相撲が、ありのままを観念でいっぱいにしておっただけで、

なんも変わらない、ありのままは目の前に常に在ったんですね。

というわけで、何かの体験を必要とするわけでもなく、
何かがわかるということでもなく、
プロセスなどなく、
すでに、そこにあった。というわけなんですよねー。