Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

コントールできまへん!

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コントールできまへん!
って言われましてもね。

わたしゃ自分で動いてますし。
さっき御飯作って食べましたし。

高尚な感じでボヤかして言われてもよくわからんし、

ってね。

思いますよねぇ。

これね。なんでぼやかして言うねん。
もっと具体的にコントロールできへんをわかりやすく言ってくれんとねぇ。。。

っていうことなんですが、それをなかなか上手く言えない背景としましてはね。

まず、わかりやすく言ってくれ!
と思う大前提にはね。

わかって理解することで自分のものに出来る。
という確固とした信念があるはずだと思うんですけど、

その信念というもんが、単なるイメージなんですよん。
って話でしてね〜。

この信念っていうのは固定観念のようなもんなんですけど、
この固定観念がさらに観念を生み。
そうやって生まれた観念がさらなる観念を生み出すんです。

コントロールが出来るていうのも、ある種、一つの観念なんですけど
どちらかと言うと、
自分という中心点がある。って言う観念から生み出された

あらゆるものは固定化できる。
物事は定義される。
定義された物事は理解される。
理解されたものを組み合わせると新たな理解が生まれる。

といった観念の一つでね。

ちゃんと分かるように教えてよ!
っていうのも、上記の観念があるから出てくる疑問だったりするんですよねー。

なのでね。
そういった観念を土台として説明を、観念がないという土台としての説明で試みる。
っていうのが、ムリゲーだったりするんですよね。

ちなみに、
理解に理解を重ねてもそこにゴールはなく、観念が積み重なっていくだけであって、
その観念に対して信じる度合いの強さがリアリティを付与していくわけでして、、、

そうやって感じているリアリティーは、個人の中に「現実感!」っとして
デーンって居座りますので、
他の人にも当然のように自分と同じ「現実」があるような錯覚も生み出すんです。

それが、あまりにも頑なになってくると、

「〜であるべき」なのに、あの人はその「〜べき」に沿ってない。
間違っておる!許せん!
っていう感情が強くなったりします。

なので、あんまりコントロールできるか出来ないか論を言うよりは、
まず、自分がなにかしらの観念を信じとりゃせんやろか?

当然の現実だと思ってたけど、ホンマにそうやろか???

ってね、ちょっと疑ってみるのがいいと思うんですよね。

方向性を180度変えてみるってかんじですかねー。

ーーー

と、前置きをしておきましたが、
せっかくなので、コントロールのことについても書いてみたいと思います。

どないやねん!
ってことなんですけど、、、


さて、

イチローはワシが育てた!
じゃなくて、
ワシが行為をした!

っていうのってね。

反応に対する後付けだったりするんですよね。

反応っていうのは、何かといいますと、
「単に起こってること」なわけですが、

風が吹いて草木がゆらゆらと動いておる。

ってなことと似てましてね。

草木は自分でゆらゆらと動いてるわけじゃなく、
風が吹いてるからその関係性でもってゆらゆらと動いてるようにみえるわけであって、
その風も自分で起こしたろっ!って思ってるからじゃなくて、
何ていうか温度が高いところと低いところが混ざり合う過程で、
高い空気は上の上昇して低い空気は下に潜り込もうとする?
みたいな???

勉強できない僕はよくわかりませんが、まあ、そういった「反応」で空気が動くわけでしてね。

じゃあ、この温度というのは、太陽が燃えとって、熱エネルギーを発散しとって、その熱が地表を温めて、太陽の燃えとる光が届かない夜は、暖められた地表が冷やされて???

みたいなことがあって、温度が動くから風が起こるわけで???

とまあ、説明しようとしだすと延々とその関連性を解き明かしていく作業が続くわけですが、
まあ何ていうか全部がひとつながりでありまして、個別で存在しているモノはないんですよね。

そういった感じをまあ、僕は強引に流れのようなもんとか、雲のようなものとして表現しているわけなんですけどね。

いずれにしてもそういった流れに強引に境界線って言う仮定の線引きをして個別のモノとしての認識をしてるわけですが、この認識が幻想のようなものだというわけなんですね。

幻想だからといって反応がなくなるというわけじゃなく、その反応を固定された観念としてとらえているこの観念の部分が幻想だというわけですね。

ま、そういった反応と同じように、身体も
お腹が減ったっていう感覚が起きたり、眠いといった感覚が起きたりするわけでして、
こういった感覚は誰かがコントロールしてるわけでもなく、それでいて完璧に起こってるわけなんです。

えーっと、、、一時間後に空腹感発動!のタイマーをセットして、
おっと食べた後はちゃんと眠くなるようにしなきゃ!

みたいなことをやってるわけでもないわけですよね。

でも、腹が減ったから何を食べようか?ってワシがやっとるねん!
ってね。
思うかもしれませんが、しょっぱい物がほしい。とか
甘いものがいい。
っていうのも反応として起こっておりまして、その反応に対して記憶が反応してるわけでしてね。

これって、温度で風が起こって風が草木を揺らしてっていうのと同じようなもんでね。

全てはひとつながりですから、そのひとつながりが連鎖して起こってる様にみえますけど、
連鎖というよりはひとつながりなんですよね。

この連鎖のように見える様子も「時間」といった観念が捉えた固定観念なんですね。

心臓の鼓動をコントロールしているわけでもなく、
鼻毛が伸びる感覚をコントロールしているわけでもなく、
そもそもそういった行為者がいるわけでもないわけです。

いたら、そういった個別の「自分」という器官があるわけでもなく、
あらゆる体の器官もひとつながりに連携していて、身体も外の環境と密接に連携しているわけなんですよね。

空気がなきゃ呼吸器官は呼吸できませんし、空気は地球の引力や空気の材料となる窒素だとか酸素だとかがないと作られないし、、、、っと、またキリがない連携が続くわけです。

どう説明しようが、その説明に終わりはなく、それでいてひとつながりでしかなく、部分をピックアップしてみても、それは学問の対象にしかならないわけでしてね。

よっしゃ!わかった。
もうええ。
身体のことは置いといて、
じゃあ、思考や感情はコントロールしてるんじゃないのんか???
と言いますと、それがもし可能なのであれば、悩みなんてものはこの世から無くなるわけでしてね。

一分後にどんなことを感じるんだろう?ってのもわかりませんし、そもそも感情だって身体と密接にれんけいしとるわけで、どこからが感情でどこからが身体か?といった境界線も曖昧でしてね。
だって境界線が元々ありませんのでね。

結局のところ、身体にしろ、思考にしろ、感情にしろ、
そういった個別のものは、実はなくて、これも流れの一部をピックアップしてるだけと言いますか。

そういった中で、それでもなんとかコントロールしよう!っていう思いが起こったりもするわけなんですけど、これもある種の防衛本能として単に起こってるだけでしてね。

そこへの固執が剥がれ落ちた時、どうあがいても流れに任せるしかあらへん。
ってなことが徐々に明らかになっていき、

あ、、、この固執が抵抗となって苦を生み出していたけど、その苦も幻想のようなもので実体はなく、境界線もなく、、個別の何かが有るわけでもなく、、、流れというのも一つの解釈であって、そういったものもなく、、、
固定化されるものは一切ないけど、固定化の材料になっていた在るというものは在るわけで、、、
それが分離されていなくて、全部であり、「それ」としか表現できず、
まさに、無いけど在る。無ではない空(くう)。それでいて、それは色(しき)そのものでもあり、、、、。

ってな感じになっていくわけですね。

うーん。ややこしいけど、難しく考えず、
わからんままに落ち着いてみると「それそのもの」に溶け込んでいくんですよねー。

かといって、わからんは自分がわかることもありませんし、
わかろうとする衝動の中で何かをコントロールする自分がいるという感覚があっても全然いいわけでして、自分がどうにかなるというのも幻想のようなものでして、、、。

ってなことなんですけどね。

とまあ、こんな話をしていくと終わりが無いわけですが、
もし、何かを頑なに握りしめていて、それをしんどく感じているのなら、
そのしんどさを解く鍵になるかも知れません。

そのしんどさも、そしてしんどさを感じている自分も、
自分が抱えている罪悪感も、、、
全体の流れの中で完全に許されているわけなんです。

なので、そんな自分に「大丈夫なんやで」「ええねんで」っと言ってあげて欲しいわけでしてねー。

あ、、、。

とりとめがなくなってきたので、今日はこのへんで〜。

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