Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

行為者はいないっていわれてもぉ〜

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お花見もそろそろ終わりですかね〜。
今年も、特にお花見ということはせず、いつも歩く道すがら、
桜の花を見上げるくらいしかしてないんですけど、、、

サクラっていう名前がなんかいいですね~。

だって英語だと、チェリーブロッサムになるわけですのでね。

なーんていうか、「桃の花」みたいな感じで、
フルーツと直結してしまうじゃないですか。
名前が、、、

まあ、日本語でもさくらんぼって言いますけど、
さくらんぼの花ってならないですからね〜。

桃の花見て喜んどるで〜。ってなると、なんか桃食いたい。。。
ってなりますからね〜。

さてさて、
よくね。
「行為者はおらんのですよー。」
ってね。
僕も言ってたりするんですけどね。

行為者はおらん。だから大丈夫なんです。

ってねー。

そう聞いたとしても、
「いやいやいや。。。あんたはなんかそんな実感があるから安心でおられるのかもしれませんけど、こちとらそんな実感もあらへんのですから、、、
全然大丈夫や無いんですけど、、、」

ってねー。
思ったりしません?

なんとか信じたとしてもねー。
どうにもならんですよねぇ。

そもそも信じる、信じないの話じゃないですからねー。

くっそー。
なんで自分がこんな目に!
あ、でも自分なんてそもそもいないんやった!

よーし、
自分はいない、自分はいない、
だから大丈夫、だから大丈夫。。。

ってね。
念仏を唱えてもどうしようもないわけですからね〜。

いやね。
ホントおらんのですよ。行為者なんて。
単にそう見なしているだけでね。

なので、見なしている間だけあるように見えてるわけなんですけどね。

じゃあ、どうしたらそれがわかるようになるのん?
ってなことがとーっても気になるところだと思うんですけどね。

行為者がいないことを自分がわかるようになる。

っていうのがもうすでに理屈が破綻しとるわけですからねー。
「自分で自分がいないことを理解するぜ!」
ってことですからね〜。

どうしようもないわけなんです。

なのでね。

もうこれは一旦、自分を明け渡すしか無いんですよね。
「それ」へ明け渡すんです。

それが帰依ってわけですね。

なにも、自分を明け渡すからには精進料理食べて節制しなきゃならんとか、
修業の道に入るとか、
だれかしらの先生の言うとおりにするとか、グルに仕えるとか、
そういうことじゃないんです。

ただ、自分の中で、根源である自分に自分を捧げると宣言してみるって感じです。

そんなことしたら全部失ってしまうやないか〜!
って思うかもしれませんけどね。

その思いをただ見つめてみるんです。

ホンマに何か持っとるんか?
持っとるというのもイメージなら失うっていうのもイメージだけとちゃうんか?
ってね。

失うという恐怖があるだけなんちゃうんか?
って見てみるんです。

もし、自分を明け渡すという宣言が自分の中で本当になされたのなら、
全ては単なる恐怖からの自作自演をしとっただけ。

なーんも失わへんのんやんか。
っていうか、なーんにも手にしてさえいなかったんやんか。

ってね。
そういう単なる当たり前が明らかになってくるかもしれませんよ。

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