Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ついつい流れを固定化しちゃうんですよね。人間だもの

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身体にしろ、心にしろ、外の風景にしろ、
ありとあらゆる全てのものはねー。
常に変化をし続ける予測不可能な流れのようなものでしてね~。

それを思考さんは、固定化して捉えたり、捉えようとしとるわけですね。
そこで捉えられたもんは、既にそのまんまの真実とはかけ離れた固定化された何かに加工をされて、わかったこととして認識される訳ですが、認識された時点でもう既に全然違うもんになっとる訳ですからそのわかったことの中には真実はありゃせんのですよね。

というわけなので、非二元やら悟りを理解しようとするのは無意味でして、分かることじゃないんですよね。

それでもわかろうとしちゃうものですから、延々と輪廻が続いていく訳です。

なので、悟りを論理化して、何とか知り、理解しようとするのは、何かが理解できたところで的外れな認識になっちゃいますのでね。
それよか、わかろうとするこの衝動の方に目を向けて見たほうが良いんですよね。

わからんままにしておけない!と踏ん張ってる衝動ですね。

こいつが探求をやめないから、っていうか、これが探求そのものですから、
探求はいつまでも続く訳です。

探求の終わりが、探求された先にある訳ないんですよねん。

これはなんていうか、走りの中にゴールはない。
みたいな感じでして、走ってる行為の中にはいつまでもゴールはないのに、
なぜかその走ってる行為の中にゴールを探そうとするので、
走るのをやめることができない。

みたいなね。

よくわからん例えになってしまいましたが、
カツオとかマグロのようにね、止まったら死ぬ!
と思って常に動き回っとるんですよね。

ま、こういった探求の動きも含めてそれそのものが常に動いとる。
という訳なんでしてね。

それがそのまんま、大いなる自然現象なんですよねー。
この動きに感情とかが絡まり合ってリアリティを演出しとりますが、
そこには何の実体もないっていうかねー、単にイメージが動いとるだけでしてね。

そのイメージが個々人っていうような概念があるもんですから、
何かしら狭く足りない感覚に襲われたりしとるだけだったりするんですよね。
そのイメージがある間だけね。

不安とか不満とか、
そういった思いに巻き込まれたりしてる時って、
ずっと不安に思ってる。
なんて思ってたりしがちですけど、
実は、それを思ってる時だけしかその不安ってないんですよね。

その不安が何かを固定化して、感情のスパイスを振りかけて、
物語にリアリティを付け加えて、
その物語の中で生きてるように感じたりしててもね、

それも、それを思ってる時だけしかその不安は起こってなかったりするんです。

なのでねー。
今だけちょっと横に置いておく。
不安について考えるのは、後回しにして、ほっておく。
どうにかしようという衝動も、
「お!今日もご苦労さん!」
てなことで、そのまんま衝動させて置いてあげる。

そして、そうやって勝手にさせてあげて、
ただただ自分はわからんままに、お茶でも飲んでゆっくりしておるとね。
あとは勝手にうまいことやってくれたりするもんなんです。

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