Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ワタシが生み出す誤解の物語

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まあ、なんて言いますかねー。
ワタシっていう感覚ね。
それが無いだけなんですわー。無いっていうか誤解に近いっていうかね。

感情とか思考とか色々あると思うんですけどね。
それはそれで全然良いんですよ。
それらはそれらでちゃんと完璧に起こっとるわけですからね。

で、それらはワタシやないんです。

なんていうか、在るっていう感覚はみんなあると思うんですよ。
で、それにワタシっていう観念をつけとるだけなんです。

この観念があるからね、
私と私以外という物語を作り出すわけでね。

で、そうなると、この私はちゃんとしてなきゃならないものに発展するわけですね。
物語の中でね。

でもって、私を守らなきゃならなくなるんです。

で、守るためには、ちゃんとしとかなきゃならないし、ってね〜、
ドンドン発展していくわけで、

この私をちゃんと守らなきゃ、唯一あるこの在るっていう感覚。
これが無くなる!
ってね〜、誤解しとるわけなんですよね。
なので、無くなる恐怖っていうのが、ワタシっていう観念の奥にあるわけです。

身体があろうがなかろうがね、
この在るは無くならんのですよ。

現に身体は常に起こっては消えていっとるんです。

20歳の頃のピチピチな僕はとっくに死んどるわけです。
身体は全て細胞でできとるわけですけど、これだって一年もすりゃほぼ全身の細胞は入れ替わっとるわけですよ。
つまり毎年死んどるんです。

家に飾ってる花が枯れるという経験も、電球が切れるという経験も、
身体が変化するという経験も、
全部この在るの中で起こっとるわけですが、
ワタシという観念が、
ワタクシゴトと外のコトってねー。
観念上でわけとるだけなんです。

で、このワタシって言う観念が、
ワタシを守らなきゃならんという思いを生み出し、
その思いが、私が損なわれるかも知れない!っていう恐怖という誤解を生み出し、
それが、
思いは断ち切るべきといったような信念や、
働かざるもの食うべからず!といったような信念を生み出し、
挙げ句の果てには、その信念もワタシと同様のものとなり、
この信念をも損なわれてはいけないものなんだって言う誤解を生み出していくわけです。

するとね、他の人がその信念に沿わないと、ダメなやつ!っていう思いが起こったり、
信念を傷つけて来るようなパターンに対しては敵と見なしたりね。

そうやってワタシという観念に色々な信念を付け加えるたびに、
全てである「在る」に条件が加わっていくわけですね。

ワタシを強化するにはよりよい「信念」を身に着けていかなきゃならん!
となってくるわけです。

ややこしいことに、この「信念」には、
ワタシを手放さなければならない!

みたいな矛盾した「信念」も加わっていったりしてね。
余計にこんがらがっていくわけです。

もちろん、起こってくる自然現象として、
身体の自己防衛本能はちゃんと起こるわけなんです。

これが拡大解釈されていくわけですね。

拡大されればされるほど、皮肉なことに「在る」を狭めていきます。

狭めれば狭めるほど、足りないが増えていくわけですね。

ホントはどこにも足りないものがなく、全てである「在る」に足りないといった観念が加わってくるわけです。

ワタシはいませんの「ワタシ」の部分には、そうやって色々な信念やら観念がすでに積み重なっていますし、その積み重なり方はみんなバラバラなわけです。

なので、みんなが認識している「ワタシ」には色んなパターンがあるんですよね。

そして、信念を損なわれそうな感覚を感じると、この「ワタシはいません」って言葉に反発するような感情が起こったりもするんです。

自分が損なわれる=在るが損なわれる

ってことですからね。

在るがなくなったらすべてを失うことになりますからねー。

というわけで、みんなに通用するパターン化はできないわけなんです。
より真理に近いことを表現している人は誰なんや!
ってね探すのも無意味なんです。

答えは自分の中、つまりは「在る」にしか無いわけですからね。

なので、まずはどんな観念を積み重ねとるのか?っていうのを見てみたらええねーん。
ってね、言ってるわけです。

でね、それが見れるのなら、それって根拠のない恐怖から来てたりしてない?って観察してみたらいいんです。

ぜ~んぶの経験が観察されるようになった!って言う風になると、
「もしかしたら、ワイ、悟った?」
なーんて思うかもしれませんけどね。

それは違って、すでに「在る」はもう全てであって、自分も自我もエゴも全部含まれておるわけでしてね。

足りないものが「悟り」で埋められるわけじゃなくて、単に「足りない」が誤解やったんやんってのが、明らかになるだけで、
最初っから足りないもんなんて無いわけですから、何かができるようになるわけでもないんですよねー。厳密に言えばね。

在る=ワタシという強力な誤解が溶けていったらね。

自然に、在るが在るだけやん!当たり前やん!何を大騒ぎしておったのか・・・。
ってなるわけなんです。

なるっていう誰かがいるわけでもないんですけど。

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