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Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

ワタシはいませんけど、ワタシは消えません

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ワタシはいません。ってのは、ま、そりゃその通りなんですけど、
じゃあ、「ワタシ」は消えるのか?というと、消えません。

何かが変わるってことはないんですよねー。

全てである「在る」とか「それ」をね、「ワタシ」だと見なしとっただけですからね。
このことから、あらゆる物語が始まるわけで、
この「在る」に「ワタシ」という観念を加えることによって、
全てである「在る」に妙な分離感が加わるわけですね。

この妙な分離感が、足りない感覚を生み出し、
「在る」の外にも何かがあるはず!
ってな観念を生み出して、その何かを探し求める探求をしとるわけです。

でもこの「在る」しかないわけで、その「在る」に付け加えてた「ワタシ」という誤解が溶けるだけなんですね。

この「在る」は何にも依存してません。

つまりこの「在る」は身体にも依存してませんので、身体がなくなっても「在る」はなくならないわけですね。

なので、生と死も無いわけです。

「在る」そのものが、今もあなたが感じている生命感なわけです。

「ワタシ」という観念の誤解を通さずにそのまんまの「在る」にダイレクトであれば、全ては生命感そのものなんですよねー。

I am that.
とか、
「私は在る」
とか言われとりますけど、
元々は「在る」だけで、そこにワタシという観念を付けて、
そして分離を生み出して、
探求しとって、、、
その探求から色々な観念がさらに付け加えられとって、、、

てねー、
なっとるわけですけど、
何も足りないもんなんてあらへん。
そもそも「ワタシ」は「在る」そのものやん!

ワタシ=在る
ワタシ=それ

やん!ってことなんですよね。

僕ね、
このブログでも、
みんな自分を過小評価しとるねん!
せやから足りないって感じてたりするねん!
ラーメンが好きやけど、あれ食べると太るねん!

とかね、言ってますけど、
まあ、ラーメンの話はおいておいて、

「在る」そのものを「ワタシ」という観念の中に閉じ込めちゃった結果、
全てである「それそのもの」=「在る」=「生命感」を、単なる個人の中に押し込むもんですから、「在る」が過小評価されちゃって、

全てである「それ」からそうやって過小評価された分、足りないが増えていってしまうんですよねー。

で、「ワタシ」は足りないもんだから、そこに恐怖感が生まれて、
足りないっていう観念が膨れ上がるほどに、

もっと頑張らなあかん!
もっと得なければならん!

ってねー。

なってくるわけなんです。

もっと頑張らなあかん!ということは、自分への不信感があるからなんですよねー。

そうやって頑張って得てきた観念がさらなる頑張りを要求したりもするわけでね。

マイホームを買ったからもっと稼いでローンを払って、
老後の安泰のためにもっと稼いで、
よりよい人生を築くために、もっと頑張って、、、

・・・

ちょwwっw!!!!しんどいわっ!!!!

ってなったり、

頑張らなきゃならんのに全然うまくいかんっ!!!!
って悩んでみたりね。

ちなみに、これはいわゆる「悟り」の修行にも現れたりするわけで、

マントラを得たらじゃあ次のもっとスゴイマントラをもらってもっとより良くなろう!
ってなったり、

この修業がおわったら、次のアドバンスコースの腫瘍のステップに進もう!

ってなったりね。

はたまた、
6次元の存在に触れられるようになったので次は、7次元だ!
とかね。

全部、「ワタシ」が生み出す物語なわけなんです。

ちなみに、物語は悪いもんじゃないですのでね。
普通に楽しめばいいんですけど、
それがどうにも欠乏感に満ちていて全然楽しくないんやったらねー。
そのしんどさは、妙な分離感から来とるのかもしれませんでー。
ってことなんですよね。

自分を無条件で認めて、愛でてあげたらいいんです。

もし、それを拒む条件が出てきたとしたらね。

その条件が、どうも自分の恐怖感が生み出した観念かもしれないわけです。

この観念が荷物になってたりしとるんですよね。

その荷物をおろした時、ファッとした開放感、ゆるみを感じるわけなんです。

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