Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

なんで、こういった探求の際にはしまい込んでた怒りとか恐怖の感情が浮き出してきますねん?

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おっはよーございやす!
タクさんでございます!

なかなかダイエットがうまくいかない今日この頃、
皆様はいかがお過ごしでしょうか?

さて、今日は、探求あるあるの一つとして、
なんで、こういった探求の際にはしまい込んでた怒りとか恐怖の感情が浮き出してきますねん?
といったご質問をいただきましたので、そのことをテーマにして書いてみたいと思います。

自己探求を通して、しまい込んだはずの怒りやら悲しみが出てきてしまう。
なんてことがよくあるんですよね。

僕自身も、こんな怒りがあるなんてしらんかったー!
って言うようなもんがワラワラと出てきてビックリしたことがありました。

せっかくしまい込んでたはずやのに、、、
なんでこんな時に、、、

やっとちょっとわかりかけてきた!っていうか、
心が静かになりかけてるこの大事な時に!

ってね。
思ったもんです。

このカルマをも、解放しなければならないのか!
なんて思ったりしてねー。
なんか、そこからまた、
カルマ解放。みたいなエンドレスゲームに飲み込まれちゃう。
みたいなことになったりもしたんですよね。

なんでそんなことが起こるねん。
ってことについて、僕の勝手な解釈を書いてみたいと思います。

ま、ホントのところはよくわからないんですけどね。

僕の場合は、怒りとして出てきたりしたんですけどね。
怒りっていうのは、恐怖から来るもんだったりするんですよね。

でもって、怒りと一緒に、記憶も呼び覚まされることもあります。
大概は、子供の頃の記憶だったりしますが、
人によっては別の人生の記憶のような形で出てきたりすることもあるようです。
この別の人生の記憶っていうのが、前世という表現がされたりしてますね。

僕も、小さい時の恐怖の記憶とか、
別の人生の記憶のようなものが出てきたこともあったんですけど、
その記憶として現れるイメージは、今、作り出されているイメージですので、
そのイメージは物語のようなものですので、記憶の内容からくる分析は、
単にイメージ上の物語を分析してるようなものなので、
あまり躍起にならなくても良いと思うんですよね。

まあ、いずれにしても、自分の中に押し込まれてた、恐怖が
呼び覚まされるんですよね。

それが、不安だったり、怒りだったりといった反応で出てくるわけです。

で、なんで出てくるねん!
ってことなんですが、

僕が感じた感覚ではですね。

実は、そういった感情とかって、
奥に押し込めたつもりで、実は全然押し込められてなかったんとちゃうやろか?
って感じたんですね。

なんとかないものとして誤魔化してただけで、実は思いっきりその影響を受け続けたんやん!って思ったんです。

どういうことかと言いますとね。

例えば、不快な音が聞こえてるとするじゃないですか。
それを、「ワーワー!」って自分の声でかき消した気になっていた。
そんな感じです。

でも、その感情はかき消した気になっていても常にあって、
そして、知らず知らずその影響を受け取ったんですね。

ちなみにね。
僕の場合は、なんていうか、悲しみの記憶とその悲しみを、なんとかないものにしようっていうごまかしだったりしたんですけど、

よくお聞きするのは、
親に対してなんとか期待に応えなければ!
みたいな思いだったりね。
子供の頃は親が自分の生活の全てを握っていたりするもんですから、
親に見捨てられたら死んでまう!っていう恐怖がどこかにあったりしてねぇ。
それで、なんとか親に見捨てられないようにしよう!
みたいな思いがあったりする場合ですね。

で、そういった悲しみやら恐怖やらを普段はなんとかかき消してたりするんですけど、
暴力的な言葉とか、
口喧嘩程度のちょっとした争いごととかを聞いた時に
なぜか周りの人以上の恐怖感やその恐怖から来る怒りが湧き上がってしまう。
とか、

小さい時に火傷をした思い出があったりして、
赤いものを見ると、妙に怖かったり、、、、
とかとか、

普段のちょっとしたクセとか反応にも、
如実に抑え込んでいたはずの恐怖感が影響してたりするんだなぁ。
っていうことを感じたんです。

つまりしまい込んでたつもりになっていても、
全然しまいこまれてはいなかったんですね。

でもって、
いつしか、しまい込もうとして、
わーわー!って自分でかき消そうとするんですけど、
この自分で言ってるワーワー!といった音がね。
どんどん激しくしていかなきゃかき消せなくなってきて、
そして、ついには自分で言ってるワーワー!がうるさくてしんどくなって来る。
重たくなって来る。
みたいなね。

そんな仕組み?を感じたんです。

でね。
探求っていうのは、心の騒音を見抜いていく。
みたいなプロセスだったりするもんですからね。

心の騒音が静まっていくに従って、自分で言っていた「ワーワー!」がね。
静まっていくんですけどね。
その時に、ワーワー!でごまかしていた感情の音が蘇って来るように感じるんですよね。
ほんとはずっとあったんですけどね。

ワーワー!っていうのは、いわば頭の中のおしゃべりです。
そして、頭の中でなんとか納得いく理由を見つけて、不快な感覚を消し去ろうとしたりします。
不快な感覚は、恐怖であり、その恐怖は自分を損ない死につながる可能性がちょっとでもあるかもしれないものだったりするのかもしれません。
だから、なんとしてでもしまい込もうとしちゃってたんですね。
でも、大概はその恐怖は以前は危機だったりしたけど、今は危機じゃない。
子供の頃は親に捨てられるのは危機だけど、今はちゃんと自分で生活できてる!
みたいなね。誤解だったりする部分も多かったりするわけですね。
そうやって原因を解いていくのが癒しのワークだったりするのだと思います。

さて、そうやって、
このワーワー!が静かになって来るにつれて、もともとあった音が姿をあらわすわけです。

で、
その時に僕が思ってたのは、
こういう風に出てきた恐怖感については、
それに対峙して、自分の中から消し去ってやらなきゃならんものだと思ってたんです。

もちろん、どうしても手に負えないように思えるものについては、
癒しのワーク的なものがとっても役に立ったりするんですよね。

なので、手放そう!手放そう!と色々とやったりしてたわけなんですけど、
一個手放せたつもりになっても、また別のとこから出てきたりして、
それを癒したら、また別のところからピョコンって顔をだしてきたりしてね、
もう、モグラ叩きか!
っていうくらい次から次に出てきてたりしてたんです。

で、
「もうええ!知らん!」
とそのまんまにしたった時に、なんだか楽になった感じがあったんですよね。

あ、そーか。
これもあってよかったんやねぇ。
何を邪険にすることがあったのか。
これは自我ちゃんの正当な働きなんじゃないか!

ってね〜。思ったわけです。

なのでね。
そのまんまにいさせてあげたらええですし、
たまには、いたわってあげたらええんですよねー。

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