Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私はいないでもなく、いるでもなく。。。どちらでもなくて、どちらでもある。

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たとえばね。
覚者さんとか言われてる人のお話会なんかがあったとしてね。
冒頭でみんなの前に落ち着いた感じでゆーったりと登場してですね。

開口一番。

「わたしは・・・・・いません。」
「ある日突然、わたしの中からわたしが消えたんです!」
(ドヤ顔)

なーんてね。
そんなこと言ってはったとしてもね。
それを聞いて
はぁー!なんて感心してたらあきまへんよ!

んなもん、聞き耳持ったらあかんのです。

・・・

あ、これやとなんか先生をディスってるように聞こえるかもしれませんけど、

そうじゃないんですよ。
別にこれは先生をディスってるんじゃないですからね。
ちゃーんと起こるべきことが起こっとるんです。

先生は非二元のことを話して下さいって言われて来てはるわけですし、
聞きに来てる人は非二元の話が聞ける!って思ってきてるわけですからね。

だから、先生は言葉では表現できない非二元のことをなんとか表現するでしょうし、聞く人は非二元の話をなんとか理解しようとして聞きに行くわけですからね。

そういう会をやろうやないか!ってことでやってるわけですのでね。

それはそれでいいんです。
なのでディスってるわけじゃないんです。

でね、こういう話ってね。

ラーメンを一切知らない人にラーメンの話をしてるのに似てるんです。

なんやねん、、、、それ。。。。
って思われるかもしれませんが、もうちょっとお付き合いください。

「ラーメンは、しょっぱいんです!」
「そして、それは食べた瞬間に至福が広がるんです!」
「ラーメンとは糸状の食べ物です。ズズズッとすするのです!」
「ただし、熱いのですするのは少々遠慮がちにすすったほうがいいのです」

みたいにね。先生は言わはるわけです。

すると聞いてた生徒さんがね。
「先生!ある人はラーメンとは味噌だと言っていました!本当に味噌なのでしょうか?」
「いや先生!あのラマナラーメンさんは、ラーメンとは醤油の風味なり!と言っていました!」
「何が正しいのでしょうか?」

ゆーてね。
聞く人はラーメンをどうにか理解して、至福を味わいたい!と思ってるわけです。
どうにかして理解ができれば、ラーメンの至福を味わえるはず!って思ってるわけなんですからそういった質問が出てきます。

先生は
「ラーメンとは味噌でもあるし、醤油でもある。そして塩でもあるのです。」
「これは言葉では表現できないのです。」
「一つ言えることは、ラーメンとは至福そのものであるということなのです。」

ってね。
言わはるわけです。

生徒さんは
「そうかー!ラーメンとは糸状であって、しょっぱくて至福なのか・・・」
と一時は納得するわけですが。

でもまてよ、、、
海で海水が口に入ったら、「ぺっぺっ!」ってなってとても嫌な感じがするぞ?
あのしょっぱさが至福なのか???

「うーん。まだ、理解が足りないみたいだ。もっかい聞きに行ったろ・・・」
ってね。

またラーメンの話を聞きに行くわけです。。。


・・・


・・



なんじゃ?この話は・・・。


い、いやね。
僕が一番、
なんやねん、この話は、、、って思ってますんで、どうかご容赦下さい。

お前めっちゃ調子悪いやんけ!
とか言わんといてください。

何がいいたいねんと言いますとね。

なんていうか、
「ラーメン食いにいけよ!」

ってことなんですよ。

ただ、ラーメンはね。ラーメン屋に行かなきゃ、それがどんなもんなのかは確かめようがないわけですけど、
「それ」とは自分自身の中に既にあるものなんですね。
なので、どこも行かなくていいんです。

「それ」とは言葉では表現できないとか言われてるじゃないですか?

そういうことを聞くと、なんかスゴイことなんと違うやろか?
って思うじゃないですか。

でもね、「それ」が特別でスゴイから言葉で表現できないってわけじゃなくてね。

言葉なんてもんはラーメンすらちゃんと表現できないわけなんです。

そして、言葉の理解の先にラーメンがあるわけじゃないのと同様にね。
「それ」だって言葉の中に正解があるわけじゃないんですよね。

「私はいません」って言葉に聞く耳持ったらあかんでー!ってのもね。

言葉の理解の先に正解があるってことじゃないねんでーってことなんです。

「私はいません」ってのは、わたしの中からわたしが消えたんじゃなくて、
最初っからおらんかった。観念やったって言う気づきの話ですからねー。

一見もしかしたら、それって「私の中から私が消える」ってーのと、
おんなじことちゃうんかい。
って聞こえるかもしれませんけど、

特別な誰かから、私が消えるってことじゃなくて、
特別な誰かなんておらんってことなんです。
最初からいてないわけですからね。

これは信じるとかそういう話じゃないんです。
逆に信じない方がいいです。
聞き入れて納得するような話でもないんですよね。

せやからね、
そう言うのを聞いて、
そうか!わたしの中からわたしが消えたらええんやな!
ってね。
そういう方向性じゃなくて、

誰にもどこにも私なんておらんのですが、
もし、そういった私がいると感じるのであれば、その「私」という部分だけが観念となってるということなんです。

身体の感覚とか、感情とか、思考とか、そういうのはあると思うんですけど、
そういったものに便宜上、「私」という観念をつけてるってだけでね。

なので、心とか身体の感覚とか、聞こえてくる音とか、
そういったものがなくなるわけではなくて、
それに「私」という観念をつけとったんや!ってことが見抜かれるだけなんです。

何かしらの固定化されたモノっていうのは無くてね。
絶え間なく流れ続ける流れ。
そして、私だと思っていたものも、その流れそのものなんです。

そして、この流れはずっとあったやん。
そんなん当たり前に知ってたやん!

ってことが明らかになるんです。
っていうか、しょっぱなから明らかやったことをあらためて、発見するんですね。

それは自分の中ですでに知っていたんです。
常にあって、知ってるのに、当たり前すぎて注目されなくなっていたものだったんです。

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