あるのは経験だけ。ってここでも書いたりしたかとおもうんですけど、
経験するからには、経験する誰かがいるはずや!ってね〜。
思うやないですか。
でもね、それって思ってるだけであってね。
ん?どこが?って言いますと、
何かを感じてるのならその主体者がいるはず。
っていう部分ね。
この部分が盲目的なしきたりのようなもんになっとるんですよ。
このしきたりがラベルみたいなもんなんですよねー。
トイレに行く前は、トイレの舞を舞うのが当然でしょ?
みたいな変なしきたりがあるとするじゃないですか。
するとね、
ほら!あの人は、あのトイレの舞を舞ってはるじゃないですか!
あの舞の型は大きい方の型ですよ。
つまり、う⚪︎こしたいんですよあの人は。
ってね〜。
当然のように言ったりするわけでね。
なーんていうか、このしきたりが身にしみてたらしみてるほどにね。
それが当然やん!って
思い込みになっちゃうわけですが、
なんか、それと似てて、
経験や体験があるのなら、それを受け取っている受け皿のような、
体験者という主体がいるはずですやん。
っていうね。
それも身に沁みたある種のしきたり、つまり思い込みのようなもんなんですよね。
こういう主体がいるはずっていう思いは、あらゆるしきたり、思い込みの大ボスのようなもんでしてね。
それが分離の幻想の土台になっとるんですねー。
人間は社会性を持つ習性がありますんで、私とあなたってやって協力してやりくりしましょうね〜、ってやってるんでね。
そういう分離の幻想を育ててるんですよね。
なので、主体者がいるはずという思い込みが、しきたりのようなもんやでーって気づきにくいんですよねー。
思い込みは、イメージですからねー。
頭の中で仮想的に作られてるもんであって、あくまでも便宜上、
そういうことにしときましょうや、っていう
ま、おままごとの役のような感じのものなんです。
なのでね、
見てみたらええんです。
足に感じる感触は確かにありますし、
聞こえてくる音も感じます。
ほら!だから感じてるのなら自分がいますやん!
っていう思いをちょっとだけグッとこらえてね、
見える景色もありますし、匂いも風の感触も感じられますが、
本当に感じられて在るのは、そういったあらゆる経験だけであって、
風とかいう名前も、本当はなくて、
あるのはその感触だけでね。
ありとあらゆる感触や音に、名前をつけるのもやめてみたら、、、
単にあるのはその経験だけなんですね。
で、その経験の中で、色々と名前をつけて判断してるわけでね。
その判断の中に、名前やくべつがあり、主体者がいるはずという思いもあるんですね。
判断の中に入り込んで、その判断の中だけが世界の全てとしてただけやったんです。
単にある経験には判断はありませんのでね。
名前もない、ただの「それ」なんです。
判断されない「それ」そのものは、最初は非常に物足りなく、
退屈にかんじられるかも知れません。
でも、その退屈さは探求のエネルギーが感じ取ってる退屈さなんです。
そのまんまにしておいてみるとね、退屈さの中には探求はいてられませんので、
徐々に行き場を失ってくるんです。
すると今まで、判断の中だけに閉じ込めてた「それ」そのものが、判断の箱から解放され、本来のイノチの表現を取り戻し始めてくれます。
判断というモヤが晴れて、ありのままが姿をあらわす感じですね〜。
あらゆる経験は、イノチの表現そのものなんです。
イノチとは移り変わる動き、表現なんですね。
主体者はいませんので、その表現そのものが自分であり、
動きにはここからここまでといったような区切りも範囲もありませんので、
全てのつながりです。
全てですのでそれ以上もそれ以下もないですから、全てだけがあるんです。
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