Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ワンネス体験のパラドックスと誤解04

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おはようございます。タクさんでございます。
きいぃぃいぃいい!

ということで、叫びますよ!

いやね。最近いっそがしいんですよ。

ふぇー。眠い。
コメントにもあまり返事が出来ておりませんで、すいません!
ありがたく読ませていただいております。

さて、叫んでスッキリしたところで、

体験に翻弄されるどんくさい男の話。昨日の続きを書いていきますね。

さて、昨日は質の違う体験があったりしたんです〜。
ってとこまでだったんですけど、

この質の違う体験はその時までも何度かあったんですけどね。
一番最初の体験もそんな感じでしたし、
ただ、やっぱり興味はより「それ?」の奥深くに在りたい!
といったような探求の方に興味があったので、なんていうか無視してたといいますかね。

どういった体験かといいますと、私がなくなる。といいますか、
たんに起こることが起こってるだけで、淡々とことは起こりますし、
あらゆることにレッテルが貼られて認識されていくんですけど、

なんていうか、めっちゃそれが客観的な感じなんです。

今までそういうのにガッツリフォーカスしてた感覚が抜けて、
私がいない。
って感じなんですよね。

でも、普通に生活してるんですよ。テレビ見て笑いますし、酒飲みますし。

でも、私はいないんです。
いなくなるんじゃなくて、最初っからこれっておらんかったんちゃうのん?
っていう気づきです。

昨日まで書いてきたワンネスの体験でも、私は身体じゃない。全てがある。
って感じで凄く似てるんですけど、

決定的に違うのは、

ワンネスの体験は、来ては去っていくのに対して、
この私がいない体験は、在るはずっとあって、そこであらゆることが起こってるって感じだったんですね。

今までも私はいない体験はあったんですけど、
やっぱりもとに戻って、探求ジャー!ってなってたんですけどね。
その探求がダメっていうか、それも許されていくと、探求が弱まるというかね。
ちょっとした特別な体験をした自分になるという希望に対する諦めが出来てくる感じですかね。

ありゃー。
高次元の存在?インスピレーションのようなものとか、人は死なず、意識は身体を離れてもちゃんとある!みたいな体験とかも、ある意味では本当の体験だとしても、それも物語やん。
目の前の現実と同じですやん!

結局いわゆる現実、社会のルールとかそういった類のものと、スピリチュアルの世界も、体験としては同じで、体験を通して知る悟りの話も体験からきた解釈でしかなく、同じ物語ですやん!

あらゆることは起こっては、単に過ぎ去るわけだけど、このどれにフォーカスされてるのか?ということであって、
ワンネスで見た全体の体験だって、部分的なフォーカスから全体性に広がった感じはあったとしても、起こっては過ぎていく動のほうだけを見ていて、静を見失ってたんとちゃうやろうか?
みたいなね。

なんていうのかなー。
ワンネスの体験のことも、ウソってことじゃないですし、
そういったスピ系世界観もあるっちゃあるんですけど、

なんていうか、その中で、あるとか無いとか。
そんなことへのこだわりがあったんやねぇ。みたいなね。

ある人はこういった体験から悟りなり何なりを表現してたり、
またある人はたんなる「それ」を表現してたりするわけですが、

そんな話の中から、
これはどうなってるんだろう?どういうことなんだろう?とか言う疑問もでてきますが、
そんな疑問も、ほったらかしておったらよくて、そうしてると、何かをつかもうというエネルギーがあることに気づきますので、気づいちゃうとその気付きも消えていきますので、
理解することも何もすることって無いんやねー。
ってな風になってきまして、

で、ちょっとずつね。
自分なんてもんは、何者でもないんやねー。ってなっていきました。

そんな感じで、目の前の喧騒も、心の奥の静けさも同じようにそれそのものですやん。
当たり前やったんやん。
単に変なこだわりを持ってただけですやん!ってことに気づいたというか、

それでいて、変なこだわりがあっても全然いいやん!って感じにすこ~しづつ落ち着いてきたんです。

悟りもクソもあれへんがな。自我ちゃんが起こっておるならそれでいいですし、それが起こっとるだけでんがな。
すごい体験があったとしても、それが起こってるだけでんがな。

ってね。

起こることは淡々と起こってくれますし、それでもう個性は輝いてくれますしねー。

そうそう、自分はいてなくても、普通に個性はあるんですよね。
妙なコダワリみたいなもんは無いんですが、それでいてなーんにも失うものはなかったんですよね。

私はいない!とか、
悟りとは自身の死である!

みたいな言葉もあったりしますが、なんか全部失うのか?っていうよりは、最初っからなかったんやん。ってね。当たり前だけが残るんですね。
で、なーんも失わないんです。

何かを掴むことによって、何かが得られるんじゃなくて、
掴むことによって、見失っておっただけの話でね。

目の前にありとあらゆる掴んだものを積み重ねていって、向こう側が見えなくなってただけで、全然向う側が消えてるわけでもなく、なくなってるわけでもなく、
それでいて掴んだと思っていたもの。積み重ねていたと思っていたものも、ものとしてあるわけでもなかったんやんっていうね。

そんな当たり前だけが残るんです。

ずっと何かをつかもうとする動きがあっただけで、掴んだ何かにフォーカスした時だけ物語が展開されていき、さまざまな体験に対して枝葉をくわえていきますが、
フォーカスしないでいても単に体験を楽めば良いわけでこだわらなくても良くなったんですよね。


というわけで、長々と続いてしまっておりますが、
次回では、体験に翻弄されたどんくさい男のしくじり話のまとめに入っていきたいと思います。

また明日ー!

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