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Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

ワンネス体験のパラドックスと誤解01

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おはようございます。
タクさんです。

僕ね。
一瞥体験とか、ワンネス体験とか、空の体験とか、そういう体験って結構何回も起こったことがあるんですけどね。

で、こういう体験を何度も繰り返すうちに、
あ、これは単なる体験でしかない。
この体験すらも物語だったんだ!
って気づいた時に、

目の前のそのまんまがそれそのもので、それ以上でもそれ以下でもない。

って感じになって、もう探求の意義が失われたんです。

一瞥とかワンネスとか空の体験とか、体験に対しての定義は非常に曖昧なんですけど、
体験によって、ちょっとニュアンスが違ったんですよね。

今日はこの体験の中で、ワンネスについて書いてみたいと思います。

あ、これは体験自慢じゃないですよ。
体験って分離なんですよね。なので、体験の先にゴールが有るわけじゃないわけなんですけど、これはそんな体験に翻弄されたどんくさい男の失敗談です。

このワンネスの体験の中で、非常に厄介なパラドックスというか、誤解みたいなもんがあると思うんですよね。

こういうことを書くと、何かスピっぽくて変な誤解が生じるんじゃなかろうか?
何て思ったりもするので、ちょっと慎重になってたこともあるんですけどね。
ま、それはそれでもええかってことで、書いてみます。

とある体験の時には、
あー、身体って現象のようなもので、実際に自分は身体の中にはいなかったんだー!
って感じたことがあったり、

また別の体験では、
全部が私だったんだ!だからワンネスなんて言われてたりしたのかー!
って感じたことがあったり、

時間ってなくて、前世とか来世とか、そういうのも、全部、一緒にあるんやー!
なので、今が前世とか来世を作り出していて、現世も一緒でこれらは同時に同調して起こってるだけだったんだー!
てな直感があったりもしたわけなんですけどね。

ここで、ややこしいのは、よく言われてることのつじつまがぜーんぶ合ってしまうということなんです。

さっきも書きましたが、こういった体験は、起こっては消えていくことですので、
物語のようなものなんですよね。

つまり、「それ」とか「解放」とか「探求の終わり」とかとは全然関係がないわけなんですけど、

ややこしいことに、つじつまは合ってしまうんです。

例えばね、
その時までは、ぼくは、
感情とかって、体の中の脳が生み出しているって思ってたんですよ。

でもね、とある体験では、
そうじゃなくて、感情が先立ってあって、それを脳が拾い上げて解釈をしているっことやったんやー!
って気づいたことがあったんですね。

つまり、自分って感覚は、身体や脳に依存しているって思ってたんですけど、そうじゃなくて、
身体や脳がなくても、自分って感覚は若干境界は薄れているような感じはありつつも、
ちゃんと自分っていう感覚は残っている感じなんですよね。

考えてみれば、それもそうで、人の体って、半年もすれば中身はまるっきり変わってしまうわけなんですが、
変わらない自分の感覚ってありますよねぇ?

子供の頃と大人の時って、体も脳も物質的には全然別のはずなのに、
自分って感覚はずっとあるじゃないですか?

それって、身体や脳に依存せず、自分があるってことなんじゃーん!
っていう発見みたいなものがあったんですよね。

つまりね。

体がなくなっても、死なない!
ってことを発見したんです。

逆に、身体の影響を離れる自由さがあるんですね。

よく、臨死体験なんかをしてる人とかで、身体を離れても自分がいる体験をしてる人とか、体では無い霊体の話とかがスピ系、オカルト系であったりして、
妙な話の一致があったりすることがあるんですけど、
そりゃそーやん。

だって、身体や脳の中に自分がいるわけじゃないんやもん!

って合点がいったって感じです。

そうか、人は死なないんだ!
これ、聞いたことがあるけど、ほんまなんやん!

ってねー。
その時は感じたわけです。

変性意識みたいなもんに入るといいますか、体のフィルターを通さないでいるといいますか、なんかそんなワンネス状態にある時って、
感情とか、思考的なものもその中でガンガンキャッチできるわけなんですけど、
それも身体で生きている時と大体一緒のように感じることができるんですが、
身体とか判断を通さない感じでキャッチできるので、
もっと直感的なんですよ。

だから、「私はあなたで、あなたは私」とか、そういう表現がワンネスと言われてたりしましたが、
感情や直感、インスピレーションのようなものの方が、先にある。
つまり川上にあって、それを脳がキャッチして判断して、より具体的な思考として解釈して、
もっと判断とかが加わった思考として再構成されて、
そうやって再構成されたものを自分の思考として感じていた。

っていうね。
そういうことだったんやん!
全部が自分なんやん、それを判断で分離というものを作ってただけなんてねー。
そんな分離ってめっちゃ不自由やん!

ってね。
そういう風に感じたりして、
巷で言われてるテレパシーとか、シンクロニシティとか、
そういうものって、そういう脳に取り込まれたあとの判断による再構成の過程をうまくすり抜けた時、
つまり、体や脳の判断のフィルターを通さずにダイレクトに感情をキャッチできた時に感じる
純粋に近いインスピレーションのことやったんやー!

とかね。
そういうことを発見したりね。

はたまた、そういうのが共有されてるってことは、個別の私なんてのはいなくて、
それでいて、人は死ななくて、全てが一つで、
それが全部だから、、、、

あー!悟りの話で言われてたのと全く一緒やーー!
ってのも発見するわけなんですよね。

話についてこれてます??
ちょっとぶっ飛んでるように聞こえるかもしれませんけど、
もうちょっと我慢してくださいね。

誤解を与えたらいけないから、言っておきますけど、これも物語でしかない話ですからね。

さて、釘を刺したところで続けます。
といいたいところですが、長くなったので、続きは明日になります。
ごめんなさい〜。

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