Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ぶっちゃけ、何も知らんのですよね。

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こんな感じのブログを書いててなんですがね。
実際のところ、僕が何かわかってるのか?
て言いますと、なーんもわかってないんですよねー。

質問とかもされたりもするんですけど、
何かがわかっててお答えするってことでも無いんですよね。

正直なところ、
何も知らんのです。

よく書いてる「明らかになる」っていうのは、
何かがわかるってことじゃ無いんです。

目覚めるっていうのは、
わからないっていう無知っていう状態から、
真理がわかって開眼する!
っていう感じじゃ無いんです。

わかろうとする。
わかって、何かを理解すると、
明らかになる。

っていうこと。

そのこと自体が、迷いを生み出しとるんやん!
って気づくことなんです。

今までずっと、何かがわかって、
それでわかったことが自分の知識になって、
それで明らかになる。

っていうことを繰り返してたけど、
それって、何も無い中で勝手な認識を作り上げてただけで、
この認識が積み重なることによって、
そのまんまが見えなくなっとったんやん!

っていうね。
そのことが明らかになるっちゅうことやったんですよねー。

でね。
なーんや。知らんでもよかったんや!
ってのが、腑に落ちるというか、実感されるとね。

今まで、
知ってる自分でいようとしてた緊張感が抜けるんです。

ふぁー。よかった。
知ってる者にならんでもよかったんや!

あー!それなら楽やーん。

ってことなんです。

こういうことを聞くとね。

考えることを放棄すればいいのか?
なんて思う人もいるかもしれませんけどね。

それだと、やっぱりまだまだ自我ちゃんのクセ、
わかろうとするクセに巻き込まれたまんまだったりするんです。

無心になるぞー!
とか、
考えない練習をするぞ!

っていうこととも全然違ったりするんですよねー。

それも、何ていうか、考えないを手に入れようとしてるっていうかね。

この辺のところが、どうにも言葉にしにくいところなのかもしれませんけど、
言葉にできないからといって、決して難しいということじゃなくてね。

言葉にできないほど簡単というか、
引っ掛かりがない、ツルツルって感じなんです。

こういうのって、クセなんですね。

で、そのクセをどうにか抑えるということでもないんです。

この辺って、思うことの逆に働くっていう感じでね。

わかろうとするのがダメなら、わからんでいようとすればいいのか!
瞑想とか、考えない練習とかをして、思考にとらわれないようにすればいいのか!

と考えると、道理にあってる感じがしますが、
そう考えちゃうと、思考にとらわれないという観念に邪魔されちゃったりして、

あー、まだ思考があるー!
てなことが気になっちゃったりして、

そういったクセがあるんですよー。
と聞くと、
クセを抑え込もうとしちゃったりするわけなんですけど、
それもまた、クセを抑え込むぞ!っていう観念に取り込まれちゃったりするわけでして、

単にクセがありますねー。って見るだけで良かったりするんです。

そのクセをそのまんま表現させてあげると、逆にそのクセが行き場を失ったりするんです。

結局のところ、そのいろいろと考えちゃう自分も、考えるクセも許してあげるんです。

ちゃんと表現させてあげて、見てあげると良いと思うんです。

その奥には、恐怖があってねー。
死の恐怖みたいなものやと思ってるんですけど、
その恐怖を克服するでもなく、手放すでもなく、
覚悟を決めて対峙する!ってな緊張感を持って克服するもんでもなく、

せやねー。怖いよねー。わかるで〜。
って見てあげると良いと思うんです。

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