Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

一瞥体験って必要なの?どうなの?

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おはようございます。タクさんです。

今日はごんさんより質問をいただきましたので、
そちらのお返事を書きたいと思います。

ごんさん、コメント、ご質問ありがとうございます。

質問ここから↓
一瞥体験は悟りではないと多くの方々がおっしゃっていますが、その体験がないことには、この世界のことを思考で理解するか、信じるしか手立てがないように思えるのですがいかがでしょうか。
一生懸命思考でその世界をイメージ化しようとしている自分がいます。
この世界は、コンピューターで例えるとプログラム言語のようなものが全てであって、それを脳という各自のOSが、様々なオブジェクトに見立てているというような理解でよろしいでしょうか。
コラムを読ませていただいた私なりの解釈なのですが、
悟りって「この世界には分離がないこと」を見抜き、そのままをそのままとして観ていくことであり、思考や感情が起きたことに対してその一つ一つのものを掴まないでいることではないかと思わされたのですがいかがでしょうか。
まだ思考の世界でしか捉えられていないようで的外れな質問かも知れませんが、お答えいただければ感謝です。
私もデザイン関係の仕事に携わらせていただいておりますが、悟りがデザインの感性にプラスに働くように思えてならないのですがご経験からしていかがですか。
↑ここまで

 

ちゃんと応えられるかどうかわからないのですが、お答えしますね。

・一瞥体験について
僕は悟りという言葉は誤解を生むような気がしていてあまり記事の中では使わないようにしてるんですけど、(でも使ってますけど・・・)ほんと、単純かつシンプルな「それそのもの」しかなくて、「悟り」という「何か」は特に無いんです。

で、そう聞いても信じるしか手立てがないって思われるのもごもっともだと思います。
でも、信じるのってあまりに不親切ですし無意味ですよねぇ。なので僕は、確かめて見るほうが良いと思うんです。
信じる信じないというのも、何かをつかもうとするクセから出てくる動きなんですが、その動きがあることをまず確かめて見るんです。

さて、一瞥体験が関係ないというお話は、僕も書いてますが、それはその体験が「悟り」だと勘違いされやすいからかもしれません。
実際僕もそう感じていたことがありまして、その勘違いが、妙なループを生み出し、そのループにはまり込むなんてことがあるんですよね。
それにはまり込んでいる時に、「あれ?全てわかったはずなのに何だろ?これ??」って思ってたことがありまして、その時に役に立つ情報が当時はほぼ皆無だったんですよね。

なんていうか、そういう体験をすればめでたしめでたし!みたいなものばかりでねー。
単に僕自身が見逃してたということもあるんですけど、そういうこともあってか、このブログではそのことを書いている記事が多くなってるのかもしれません。
でも、ホントは思いつきで書いてるだけだったりします・・・(笑)

じゃあ、何が違うのか?と言いますと、
簡単に言っちゃうと、
「認識の中で認識を掴み取り、その認識の中で理解していく。」
といったような流れで、世界を構築するということを大前提としている。
というのと、

「その認識も含めた全てがすでにそれそのものでしか無い。という見抜き。」
の違いといった感じなんですけど、書いてる自分もそう思いますが、
めっちゃややこしいですね。

「認識を掴み取るクセをクセとして見抜くかどうか?」といった表現が近いかもしれません。

この認識というのが、分離の概念を生み出してるんですよね。

認識するからには主体と客体が生まれるわけですが、ホントのところ、主体も客体もないよねーって言う見抜きです。

一瞥を「体験」としてしまうと、体験された自分というものが必要になっちゃいます。

また、ある種の特別な体験としちゃうので、余計に分離の感覚が強くなったりするんです。

分離がない、認識の世界は幻想だ!っていうのが分かるんですが、感覚として分離が残っていて、「わかった自分」という観念が気づかない無意識な中でデーンとあるんです。

なので、わかったということが、余計に、分かると分からないといったような分離感をより強くし、「認識は幻想だ!」といった観念を掴んでしまうといったような矛盾がはらんでしまって、変にループしちゃったりするんです。

認識の中で「認識はない」ということを認識として受け止めてる。
といったような矛盾です。

なので、体験として訪れたものは、単なる体験でしか無いので、あまり掴まないほうが混乱せずにすむんですよね。

ただ、混乱してようが、何してようが、ホントそのまんまが在るだけですので、全然オッケーなわけです。
「これがオッケーなわけないじゃないか!」といった思いが起こるのも、分離のエネルギー、探求のエネルギーなんです。

でもって、
このエネルギーを見抜くぞ!
って思っちゃったりするのも、一つの観念であり、どうしようとこの分離からは逃れられなかったりするんですよね。

なので、たんにこの分離のエネルギーがあるよねーってのを見てみるんです。
どうにかしようとせずに、気づいてみるって感じです。
で、単にあるよねーとして、何かを足すでも引くでもなく、そのまんまに在ってみるんです。

エネルギーを単に見てみると、エネルギーは行き場を失います。
次第に見てる自分っていうのをさらに見てる自分がいるような気がして、それをさらに見てる自分、と観察していくと、その一連の見るという鑑賞意識も観念でしか無いことが明らかになってくるかもしれません。

となると、もう「在るが在る」それ以上でもそれ以下でもないという「それそのもの」に降参せざるをえない。っていうか、
認識を重ねて何かを理解するというのは通用しないんだということが明らかとなり、
その観察してる鑑賞意識もたんなるそれそのものの中で起こってるように見えていることにすぎないっていうことになっちゃうんです。

この辺のことは今後も書いていこうかなーと思ってますので、また何か気になったことがあったらコメントいただければと思います。

こうやって書いてるのも、理解しようとすると一つの解釈になってしまいますので、正解でもないんです。
実際、全然表現できとらんなー。と自分でも感じます。
なので、読んで理解するというよりは、ヒントかおつまみ程度にササッと流すかんじで、何か自分の中にファって何かが灯る感じがあったとしたら、その灯る感じのほうを感じてみるほうが良いと思います。

ただ、単にそのまんまの中で何かをつかもうとし、掴んだことで分離するっていうジレンマがあるんですよね。

さて、この世界についての質問ですが、
感じるのは、
個別の身体もなく、個別の感情もなく全てはひとつながりであり、全てが全てとして表現されていて、それが全て(宇宙)の本質だとすると、その中で身体という単位の中で小さな世界(宇宙)を仮想的に作り出し、その仮想の中で認識を生み出し、認識の中で世界を作り上げていると言った感じかな~って思います。

いずれにしても認識を通して、その認識内での世界があるように感じているわけです。
でも、これも一つの表現ですので、プログラムが各自のOS内でオブジェクトに見立ててるっていうのでも全然良いと思います。

ただあるのは、全体であり、その全体には見ている、認識していると思っていた自分も含まれておりまして、
その認識を説明しようとしたときだけ、何かしらの仮説が作られますが、
本来は「なんでもないモノが在るだけ。」って感じなんです。

そう言っちゃうと、なんか空虚な感じがあるかもしれませんが、
けっして空虚な感じじゃなく、全体性であり、なおかつ一体ですので、
この一体感は愛そのものと表現されたり、
全体性は完全さと表現されたり、この完全さを至福と表現されたりします。

ごんさんもデザインのお仕事をされているのですね。
こういった感性に役立つのかどうかは、??ですが、単に僕の技術不足のせいなのか?
あまり役に立った感じはないかもです。
ただ、何かが変わるということでもなく、変わらなきゃいけないといった強迫観念に似た感じが、単なる生存本能から来る一つの働きでしかなかったんやー!といったようなことが明らかになるだけなんです。
ですので、強迫観念にとらわれることは少なくなるかもしれませんけど、特に変わるところは無いかもしれません。ただ、副作用的に楽にはなることもあります。

なので、お客さんにデザインを否定されても、あ、そっか。と楽に聞き流しちゃうようにはなったかもしれません。
で、キーッ!ってなることも、起こるときは起こるでしょうけど、それはそれが起こってるんやねー、って感じです。
なんていうか、ちゃんと頑張ったりは、するんですけど、その奥にある深刻さが薄くなるんです。

以上になりますが、さっぱりやわー!ってなるかもしれませんね。
また、お気軽に質問下さい。
とは言っても、僕が何かを知っているというわけではなく、
単にわからんままでよかったんやん!ってことを知った(?)だけなんですけどね。
へ??どういうことやねーん。ということは、近々記事にしたいと思います。

コメントありがとうございました。

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