「それ」が明らかになるとどうなるんや?
ってことって、気になるところかも知れません。
ですが、
明らかになったところで、実は何にも変わりませんし、
どんなことも起こるんです。
ええカッコせなあかん!みたいな思いも生まれれば、
ちょっ!俺が並んでたのに!横入りされた!
ってイラっとしたりね。
物語と呼ばれる何かが終焉となるわけでもありません。
明らかになるのはその物語のウソさなんです。
物語のウソさとかいっちゃうと、物語全部がウソかと思いがちですが、
なんていうか、そういうことでもなくて、
その物語の根底にあるもの。
そのウソさだけが明らかになるっていう感じなんです。
その根底にあるものってなんやねん?と言いますとね。
それは、
「自分が損なわれるんやなかろうか?」
っていう恐れなんです。
自我ちゃんは色々な物語を頭の中で表現しますが、
その根底には「自分が損なわれるんやないか?」って言う恐れがあるんですね。
なので色々と反応は起こるわけなんですが、その大元の恐れ、自分が損なわれる事はないと言うのが明らかになるんです。
明らかになったからといって、
じゃあもうどんなことがあっても動じなくなるんか?
と言いますと、そういうわけでもなくてですねー。
明らかになったところで、
普通にちゃんと身体を守ろうとする機能は変わらず働き続けます。
自我ちゃんって呼んでますけど、自我ちゃんという何かがあるわけじゃなく、
これは、ある種の働きであって、身体を守ろうとする機能のようなものなんです。
その働きが自身を守るために「より良くなろう」としておるわけです。
この働きがなくなるわけじゃないので、表面上は何にも変わりません。
でも、今までこの働きが作り続けてた物語の大元にある「自分が損なわれるんやなかろうか?」っていうウソさは明らかになってしもてますんで、
今まで同様に恐れの物語を作るのがちょっと下手くそになってくることはあるかも知れません。
結局のところ、「それ」が明らかになるとどうなるのか?
というと、
「それ」が明らかになるだけ。
だったりするんですよね。
どうなるのか?っていうのに重きを置いてるのは自我ちゃんだけだったりするんですよね〜。
あきらかになると、
どうにかなろう!
とか、
これになんの意味があるのか?
とか、
そういった、どうなるのかっていうこだわりに支配される不自由さからも自由になれるんです。
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