Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「私はいない」の誤解について

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題名は変わってますけどね、
内容としては、昨日の記事の続きとなりまする。

 

takuteto.hatenablog.com

 

えーっと、「私はいない」っていう話は私という働きが消えてしまうっていうことやあらへん。
っていう話でしたねー。

なんか、言葉では妙に表現しづらいんですが、

私はいないっていうのは、私が消えるんとちゃうのん?
って思いますよねぇ。

でもそういうことやないんですよね。

そういうことやないんですー。とかいうと、じゃあ私はやっぱりいるの?
ってことになるじゃないですかー。

でも、それもちゃうんですよー。
おらんのですよ。私なんて最初っから。

けど、いわゆる自我ちゃんの働きとしては普通にあるんです。
身体が機能し生きてる限りはね。

ほら、
よくさぁー。

目覚めとは、私の死なのです。

みたいな表現があったりするじゃないですかぁ?

これも変な話でね。
私の死があるんやったら、私の生があるんとちゃうか?
って思うやないですか。

人のサガとしてね。

で、私の生っていうのは、体の働きやったりすると思うんですけどね。
そんなもんが目覚めることによって、なくなるわけないんですよねー。
当たり前のことながらね。

じゃあ、何が死ぬねん?
って言いますと、何も死なないんですよ。

でね。
体じゃなくて、心の死なんでしょ。
つまり心の帰依なんでしょ?
なんてことかと言いますとね。
確かに、降参とか帰依とか言った表現もあったりしますけど、
それも、別に望みとかを自分の中から捨て去るのか?というと、
若干ニュアンスが違いましてね。

はたまた、私がいないを受け入れるっていうことともちょっと違うんですよ。

私という動き、働き
これが一切消えて無くなる

というのも、違うんです。

お腹も減りますし、好き嫌いも普通に起こります。

じゃあ、私なんていないのに、その働きを私だとしているというのが違うんやね!

と言って、「私はいない」をするってことでもちょっと違いましてねー。

そういう働きを私と言ってても全然問題ないんですよ。

別に私と呼ばなくてもいいですしね。
リーラとか神の戯れとかどう呼んでもいいですが、

呼び方って言うのはぜーんぶ便宜上のことですので、
どう呼んでも一緒なんです。

幻想としての世界と呼んでも別にいいですし、
リーラと呼んでもいいですけど、
普通に私としていてもいいんです。

で、私っていう動きは常に今じゃないどこかを探し続けますよねぇ。
自己防衛本能ですからね。

そういった動き(エネルギー)が消えて無くなるってこともないんです。
しつこいようですが・・・。

結局のところ、
へぇー。そういう動き、働きが起こってるんやねぇー。
っていう見抜きなんです。

誰かが見抜くんじゃなくて、単に見抜きなんですよね。

この見抜きの副作用としてね。

なんていうか、自我ちゃん的な動きが鈍ってくるっていうのはあるんですよ。

例えば、あんまりせかせかしなくなったりとか、
妙な心配が弱まったりとか、
あとは、起こるがままに任せておったらええやーん。
って感じになったりとか。

でも、それは絶対にそうなるってわけじゃなくて、
そういう副作用的なものが起こる場合もあるってことだけで、

えらい怒ってはるからあの人は悟ってないとか、
あの人はいつもニコニコ微笑んで、まるで子供のような無邪気さで
悟りを体現している。
とか、、、

そういうのも自我ちゃん的な都合で判断されてる物語でしてね。
副作用として、なんか微笑ましい優しい感じになったりしててもいいんですけど、
あくまでも、副作用ですので、その作用がどう表れるか?
なんてのは、わかりませんし、
そこは別にどうでもよくて、
単に見抜かれてるってだけなんですよね。

で、見抜かれれば見抜かれるほど、誰かがどうにかなるっていうことやない。
そんなんあれへん。あえていうなら、みんなすでにもうそれそのものやんってなるんです。

仏教とかで、
悟りにも段階がある。みたいな話があったりするんですけどね。

四向四果 (しこうしか)なんて呼ばれてたりしてね。

預流果(よるか)、 一来果(いちらいか)、 不還果(ふげんか)、阿羅漢果(あらかんか)。
みたいな四つの結果があって、それぞれその4つに向かっている段階もあって、
四つの向かってる段階と、四つの結果の段階を合わせて、四向四果 (しこうしか)だということらしいんですけどね。

ま、ここではあまり詳しく書きませんけど、
こういうのも、言っちゃえば物語なんです。
自我ちゃんの都合による物語なんですよね。

どうしてもね。
自我ちゃんは、何かを目指そうとしたり、何かを掴んでおこうとしちゃうわけなんですけど、
それはそれで、自我ちゃん通常運転ですのでいいんです。

そして、その自我ちゃんの通常運転を見抜いてるってだけの話で、
見抜いてる誰かもいてないので、ちょっとややこしいんですけど、
単に見抜きがあって明らかになってるだけで、
じゃあ、常に明らかであるべきかというとそうでもなくて、
なんていうか、何も掴まなくても大丈夫なんやん!
っていう見抜きってだけの話なんですよね。

見抜きの中で、何かを掴んでも掴まなくても、どうでも良いって言っちゃうと語弊があるかもしれませんけど、
どっちでも良いってことなんです。

なーんや。自分がどうにかなるんでもなくて、何も掴まなくなるんでもなくて、
そういった動きも普通に自我ちゃんの通常運転に過ぎないんやーってね。
ふぁって力が抜けた時に、知らないうちに力入れてただけやん。ってね。
見抜かれるっていう感じでしょうか。

ま、この表現も語弊があるかもしれませんけどね。

というわけで、今日はこの辺でおしまいにしとこうかと思いますけど、
まー、我ながら書き方がへったくそでスイマセン。

この辺のテーマは、また日を改めて何度か表現を変えて書いていきたいと思います。

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