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Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

ワタシはいませんが、ワタシとしていた働きが消えて起こらなくなるってことはありません。

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僕らが感じる嫌な感じ。
いわゆる苦ってやつなんですが、
これは自我ちゃんの自己防衛本能から来ております。

この自己防衛本能は、決して邪魔なモノというわけではなく、
それがあるから、ちゃーんと危険から避けられて、身体を維持できるわけです。

例えば、火をさわってアチーってなったら、
次回からは火を触りそうにならないように気をつけようとするわけですね。

あと、脳には習慣化という機能もあります。

これはいちいち記憶を探って物事に判断を下す。
これは危険か危険では無いか?いちいち記憶まで遡って判断を下すのは非効率なので、
ショートカットできるようにするわけです。

この機能もとっても便利な機能やと思います。

ただ、この機能が過剰に働いちゃう場合があるんですよね。
もうその危険は無いのに、異様に恐怖感が残ってる。みたいなこととかねー。
そういうのを結構気づかないうちに抱え込んでたりするんですよねー。

で、その恐怖を投影した現実を見ちゃったりするんです。

これは嫌なことだけじゃなくて、自分にとって良いと思ったもの。
快と判断したものばかりを集めちゃう、求めちゃう。
みたいな方向に働く場合もあるようです。

必要以上に良いとか悪いにこだわっちゃうのって
自分が失われるんじゃなかろうか?っていうような恐怖感が元になってたりするんですよねー。
なので、失われないように、自分が損なわれないように、
自分を強化しようとしたり、不快なものは避けようとしたり、
自分の中にある不快感は抑え込もうとするわけです。

で、そういった無意識に築いていた思考のクセなんかは、
明らかに晒されて、それを見ることによって、
その思い込みから解放されたりするんですよね。

自分の子供の頃まで記憶を遡って見て、その記憶を観てみると、
親の怒る表情に恐怖を感じていた。
とか、
親に見捨てられると生きていけないという恐怖とか、、、
怪我をした記憶から、高いところが異様に怖いとかとか、、、

人それぞれ色々とあると思うんです。

で、あまりに重たいトラウマとか思い癖に悩んでるんだとしたら、
二元とか非二元とかいう話以前に、そういったことが専門のプロの臨床心理士さんとかに診てもらうのが良いと思うんです。

で、瞑想とか癒しとかもね。
そういった自分の心をただ見てみるっていうのには役立つと思うんですよ。

そうすると一見、そうやって見ていった先に「それ」があるように思いますよねぇ。
そうやって自分の思考に巻き込まれないようになっていったら、
なんか、自分の思考から自由になっていって、、、、みたいなね。

カルマを解放した先にあらゆるカルマから解放された自由がある。
みたいなねー。

一見、合理的に見えたりしますもんねぇ。

でね。

確かに、あらゆる思い込みから自由になれる瞬間みたいなものもあったりするんですよね。
一瞥体験とか見性体験とか無我の境地とか言われてたりするやつですね。

そういった境地って確かに私はいないですし、
なんていうか、「それ」しか無いやん!
うまく言葉では言えませんけど、私がいない「それ」しかなかった!
という境地ですので、
まさに「それ」そのものなんですけどね。

ここで、妙なパラドックスというかジレンマが生じてしまうんですよね。

そのパラドックスというのが、体験中の無我状態?と自我に戻ってる自分を分けちゃう。
みたいな感覚って感じなんですよね。

なんて言いますか、無我の境地は見落としてるものがあるんです。

その見落としてるものっていうのが、自我ちゃんなんですね。
で、みょうな勘違いが起こったりするんです。

今まで私だと思っていた動き。その動きをなくさなければならない!
みたいな勘違いです。

自我ちゃんってのは、勝手に名付けられたもんですので、
ホントは無いんですけど、
なんていうか、そういう働き、動きでってのはおこるんですね。

全部しかないわけで、個別の動きってのはないわけですが、
一瞥が体験となった時に、無我!って感じになったりして、
喧騒がなくなり、静寂って感じになるわけなんですけど、
この静寂が喧騒を見失わせる。っていうね。

で、なんか特別な体験になっちゃうんですね。
自我ちゃんにとって自我がない素晴らしい体験といった風になっちゃうんです。

ホント言葉での表現がややこしくて面目ないんですけど。。。

一瞥体験とか、覚醒体験っていうやつも、無我の境地ってやつも、
どこかで、微妙に分離してるんですよね。

分離っていうのは何かしらの掴み取りクセが生み出すわけなんですけど、
悟りとか覚醒っていう、本当はそんなんもないんですけど、
そういうないものをでっち上げて掴み取っちゃったりするんですよね。

変な話、自我ちゃん自身が、自我ちゃん的な動き、働きを消し去った自分!ってのを作り出しちゃったりするんです。

ただ、働きがや動きは普通に起こり続けますので、その辺であれ?って感じたりするんですよね。
悟ったはずなのに、なんか生きにくいんですけどー。みたいな感覚とかね。

なんか体験はあったけど余計に生きにくくなったりする場合もあったりするのは、
「それ」へのこだわりとか、掴み取りが起こってたりするからだったりするんです。

なんか体験はあったけど何かが変だぞ?って感じてるから生きにくく感じたりするわけですが、まだそれならマシで、
「オイラは覚醒しちゃったぞー!」
みたいに思い込んじゃったりしてる場合はその変な思い込みがどんどん分離感を深くしていったりして、妙にこじらせちゃったりしちゃいます。

そういうこともあって、僕は「悟り」もなけりゃ、「覚者」もいてませんよぉー。
何かしらの特別な何かを得ることでもないですよーん。

って書いたりもしてるんですけどね。
ま、ホンマにないしいてないんですけどね。

ほら、団体によっては、悟りのライセンスみたいな印可状(いんかじょう)ってなもんがあったりもするじゃないですか。
いろいろと事情があって、そういうことになってるのかもしれませんけど、
こういう当たり前のそれを誰かが誰かに教えとして伝授するっていう考え方がすでにボタンの掛け違えを起こしてたりするので、変な事情ができたりしてると思うんですよね。

そういう特別なことやないんですよ。

特別だとするなら、それはそういう物語なんですよねー。
普通と特別が分離しちゃってますからねぇ。

そういう特別感ってのも「私とその他」っていう概念がなきゃ成り立たないわけなんですよね。

ちなみに私というエネルギーが無くなるっていうのもよく言われてたりしますが、
それともちょっと違うんです。
それだと、私という働きが消えてしまう。みたいな表現に見えてしまうと思うんですけど、そういうことじゃないんです。

じゃあ「それ」ってなんやねんー!お前は何が言いたいねーん!
ってなってきますよねぇ。

それについては、ちょっと次回で書いて見たいと思います。

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