Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

起こってることに気づき続ける

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起こってることに気づき続けてみるってのもたまには良いと思うんです。

そうすると、最初の方は。思ってること感じてること、
でもって体の感覚、座ってる感触、足の感覚。

そう言うのは結構分かりやすく気づくと思うんですよね。

そのうち、思ってることとか感じてることを集めたがってる意識。
みたいなのに気づくかもしれません。

常に、そういった感覚になる材料みたいなものを集めては、
今までのクセ付いた判断で判断してる意識みたいなもんです。

例えば、体の感覚を感じるのだとしたら。この感覚とは何なのか?
みたいなお題を作り出し、さらに材料を集めようとしたり、
ある種の感情や思考があるのなら。
その思考や感情に対して、この思考の奥には何があるのか?
といったお題を作り出し、さらに思考や感情を意識のまな板の上に持ち出し。
判断し、吟味しようとする意識。クセみたいなもんですね。

このクセは常に探求を続けてるエネルギーみたいなもんですね。

普段はこの感覚と、そこから集められる思考や感情の総合体。
集められた感情や思考がさらに記憶で持って判断されて、さらに新たな思考がこしらえられて、、、
って常にやってる一つのシステム。
このシステムまるごとを「自分」ってな概念として捉えられてたりします。

こういうシステムも、あまり相手にせずにそのまんまにしておきつつ気づいてみるんです。

あーだこーだと頭の中で話し続けるかもしれません。
そういうときは、そういった言葉も、
そのまんまに相手にせずにただ、気づいてみます。

言葉はただの音でしかなくなり、文字はだたのシミになってきます。

そうなってくると、わさわさと探求したい!っていうエネルギーが
動き出してるのにも気づくかもしれません。

これって、どういう感じのエネルギーかというと、
暇を持て余す。っていう感じに似てるかもしれません。

それも、ただ、暇にさせておき放置しつつ、ただ気づいてみるんです。

こんな事が許されても良いのか!
このままでいいはずがない!
ちゃんと考えておかなきゃいけない事がたくさんある!
あ、明日の約束は何時だったっけ?

みたいな想念が必死にそのまんまにしておくことに抵抗してるように見えますが、
それも、放置です。

言葉というただの音でしか無いものに
色々と深刻な意味があるような
感覚が次から次へと沸き起こるかもしれませんが、

ま、今だけ放置する。後回しにするって感覚で
ただ、気づいてみるんですねー。

そうやっていくと、もう気づいている自分と、気づかれている対象しかなくなります。

気づかれている対象は色々と意味がありそうで、
言葉がただの音だと気づかれると、そういった意味も失われます。

すると、ただ気づかれている対象があるだけでしかなくなるんですよね。

そして、その対象に気づいてる自分っていうのも、一つの感覚として気づいてます。

気づいている自分も一つの対象に過ぎなかったわけです。

あれ??
じゃあ、気づいてる自分に気づいている自分はどこにいるの?
気づいている自分に気づいてる自分に気づいてる自分は???

ってな、妙な感覚を覚えるかもしれません。

それも、ただ、想念として起こってるだけで、
どこにもその主体となる自分はいないんです。

言葉を手放し、気づいている自分でさえも対象でしか過ぎなかった事が明らかになると、
ただ、あるがあるだけで。自分もそのあるがあるだけの一部で、
すべては一部であり同時に全体である。

ってな事が、だれかに対して明らかになるのではなく、
ただ、明らかになるんです。

「それ」とはそんな究極にシンプルな事なんです。

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