Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分がつかみ取っている大事なもの

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自分で掴み取っている何かっていうのはね。
自分にとっての考えや、信念、記憶、クセ。
そういうものだったりするんですけど、
こう言ったものを、手放しなさい。って言われるとねー。
なんか悲しいじゃないですか。
ホントは手放すのって悲しいことじゃないんですけど、
そう言われても、やっぱりねー。
っていう思いもあると思うんです。

でも。手放すっていうのは、なにも、ないがしろにするってことじゃ無いんですよね。
見てあげて、慈しんであげる。
って事なんです。

大事に握りしめているものっていうのは、その裏には、それを失う恐怖みたいなものがある場合が多いんですよね。
その恐怖の方を、見て慈しんであげるんです。

ちょっとあるあるな勘違いとしてね。
例えば執着を取り払うために、
頭を剃ったり、財産を喜捨したり、
楽しみを押さえ込んだり、、、

そんなやり方を推奨してるパターンもあったりするんですけどねー。

そういうのって、全く関係ないんですよね。

なんか悟りと清貧がセットになってるような印象もありますが、
それも全く関係ないんですよ。

もちろんそういったことをやって、たまたま執着が取り払われた!みたいなこともあるかもしれませんが、
執着があるとかないとかっていうのも、ホントは悟りとは全く関係ないんですねー。

逆に、何かを代償にして、悟りを得る。
とか、執着を取り払った先に悟りがある。
みたいな考えが助長されることにもなったりして、
余計ややこしいことになるんとちゃいますやろか?

なーんて思ったりするんですよねー。

僕は、そんなややこしい手順はむしろ邪魔で、
ややこしければややこしいほど、邪魔になるんちゃうかなーって思うんです。

マントラとか、高度なマントラとか、特別な伝授とか、とある聖者がーとか、
そんなんもややこしいやないですか。

もっとシンプルなんですよね。

ただ、ありのままがあるだけですし。

悟りって言う何かすら無いんですよね。

ありのままを、ありのままに見てみるんです。

見てみるってのは、ありのままをありのままにしようとしていない様を、
確かめてみるんですねー。

執着とかもありのままに起こってることですので、それもただ見てみるだけなんですよね。

へー、ありますねー。
で終わりなんです。

抑え込もうとか、今後、出ないようにしようとか、
そう言うのも物語なんです。

なので、

ほほーう。
そう言う物語がおこってますねー。
で、終わりなんですよね。

一応、言っておきますと、
じゃあ、そういった修行が悪いことなんかー!
っていうと、もちろんそういうことじゃなく、全然良いんです。
それが起こってるわけですからね。
なので、楽しくやってたら良いんですけどねー。

ただその起こってることに意味がある!と思っているのだとしたら、
その意味が観念となり、その観念が概念化された世界観を生み出しておるんですね。

その世界観がただの概念だと見抜かれたときの感じが目覚めって呼ばれてわけでしてねー。

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