Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

探求のエネルギー

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おはようございます。タクさんです。

大晦日ですねー。

みなさん。良いお年をお迎えくださいね。

さて、今日もブログはいつも通り淡々とした内容で進めていきますねー。
今日は探求のエネルギーについて書いてみたいと思います。

▪︎▪︎▪︎

探求のエネルギーって言うからには、何かを探しているエネルギーなわけなんですが、

では、何を探しているのか?っていうと、元々あったスタート地点の「それ」そのものを探しているんです。
そして、その探そうとすること自体が、元々ここにある「それ」そのものを見えなくしているっていうパラドックスがあったりするんですよね。

分離によって、足りないっていう思いが生まれ、その足りないを埋めるために、自分自身に何かを足そうとしちゃってるんです。

足せば足すほど、安心に近づいて、ついには完全な平安が訪れる。
完全な平安とはいかずとも、それに近づいていたい。って思うわけなんです。

でも、その平安を分離が前提となっている概念上に存在する「自分」が手に入れようとするのは、無理なんですよねー。
だって、分離という概念がその平安を覆い隠しているからです。

自分という探求のエネルギーは常に解決策を探し求めます。

なので、だったらどうしたら良いんだー!つってね。
思ったりするわけなんです。

実際のところは、こういったエネルギーも、外に吹く風と同じように、
ただ起こっている一つのエネルギーに過ぎないわけです。

このエネルギーに、自分という概念を付け加えているだけで、
本当のところは、単なる現象のように見えるものに過ぎないわけです。

だから、そのまんまにしておけば良いんです。
そのまんまにしようが、しまいが、
それは、起こり、そして消えていきます。

あらゆる思考を従えながら、あらゆる感情を従えながら、
起こっては、消えていくわけです。

自分がいなくなる。っていうのは、なにも思考や感情が起こらなくなることとは全然違います。
叩かれても痛くならなくなる。ってことでも無いんですよね。

単純に、思考や感情、身体や感覚のことを自分だと思っていた。
っていう誤解が解けるだけなんです。

普通に、今まで通りに、パーソナリティもクセも残ります。
ただ、それらは、勝手に起こってるだけで、
それを行為している自分っていうのがいないだけなんです。

僕らって、何かを食べたら、胃で消化し、栄養分を血液に乗せて全身に運び込みますが、
これを意図的にやってる誰かがいるでしょうかねぇ?

心臓の鼓動にしても、ちょっと急いで小走りするから、今からちょっとだけ鼓動のテンポあげてくよー。
なんて思ってから、小走りに走り始めたりしませんよねぇ?

それらは、勝手に起こってます。

そして、行為者っていう誰かもいません。

臓器に限らず、身体も脳も、心も感情も、そうやって生き生きと生きておるわけですが、
そこに、行為者はいてません。

また、身体や脳や心や感情、そして空気に水に光に、外に走る車に、動物たちに、、、
これらに区別ってのは無いんですよねー。
勝手に空想の中で区別をしているだけで、
これらは、川の流れの波のように、常に流れ続けているわけなんです。
その流れこそが、まさに、僕らが実は奥の方で理解している、いつも感じている、
生命感なんです。

この生命感だけが、脈々と息づいているんです。

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