Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

自分っていう感覚は実はいいかげん

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自分っていう感覚ってね、
結構がっつりいつも変わらず、変わらないところにいるもんだと思いきや、
結構いい加減だったりするんですよね。

普通は体とか心に自分という概念を置いている場合が多いわけです。
そして、体の場合は自分の皮膚を境目としていたりするわけなんですが、
それが結構いい加減だったりするんです。

例えば、車に乗ってるときなんかだとね、
停車中に、理不尽な歩行者が車をガーンって蹴ったとします。
すると、自分じゃないのに、自分がけられたかのような怒りがフツフツと湧いてきたりするもんです。

この場合、体以外に、車もどこか自分の一部になってるんですよね。
また、自分の子供が誰かにぶつからないように注意したりして、
自分と同様に守ろうとしたりします。
そやって、自分の愛する者も自分の一部として扱ったりします。
それが広がっていくと、
自分が所属している団体であったり、
はたまた、自分の信念と同様のことを無下に扱われると、
妙に腹が立ったりと、
体だけではなく、いろんなモノに自分という守備範囲を広げてたりするんです。

じゃあ、体のどの部分が自分なのか?
って考えると、それはどうも分からなかったりするんですよね。
手や足はどうも自分の道具にようにも感じるし、
心臓?脳?
でもどの部分か?と言われるとよく分からんことになるわけです。

また、体である場合の他にも、たまに心が自分だという場合もあります。
その場合は信念とか感情とか考えとかが、いわゆる心として機能しているように見えるわけですが、
自分だと思いつつ、コントロールできそうで、出来ない。
なので、いつも心が晴れやかになる方法を模索していたりするわけです。
自分だと思っているので、どこかにコントロールできるはずっていう思いがあるわけですが、どうにも完全に掌握できていないことは重々わかってたりするんですよね。

まあ、そんな具合に自分という普遍的な中心点があるように見えて、
実は自分という中心点は非常に曖昧かつ、いい加減だったりするんです。

ピンポン球の中心には何かがあるように感じてはいたけど、
実はなーんにもないただの空洞だった。

みたいな感じで、
どこか体や心の奥に自分という中心点があるように見えて、
実はあるのは、体や心として起こっていることだけであって、
その中には何にもなかったりします。

ということは、あるのは、目の前で感じているこの世界があるだけ。
その中で起こる様々な解釈もただ起こっているだけ。

そしてあるのは、その全部だけ、だったりするんですよね。

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