Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あるがままへのダメ出しって、自己否定だったりするんですよね。

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目の前の現実、あるがままではダメだ!
って言うのが、あらゆるストーリーを作り出す、ってな話をねー、
このブログではしてるわけなんですが、
この「ダメだー!」ってのは、実は自己への否定なんですよねー。
この否定が、ある種の輪廻と言いますか、
物語がループする元を創り出したりしておるわけです。

このループが、どやって発生しておるのか?
ってなことについて、今日は書いてみて、皆さんのご機嫌をお伺いしようかと
思っておる次第でございます。

お早うございます。
タクさんです。

僕らのね、現実だと思ってる世界って、実はあるがままを見てるんじゃなくて、
それに何かしらの色(いろ)をつけて見てるんです。

その色(いろ)っていうのが、判断であるわけなんです。

色即是空とか言われている色(しき)っていうのも、
この判断を加えて見ている世界ってことなんだと思うんですけどね。

この判断を加えて見た世界っていうのが、実は目の前に広がっているのではなく、
僕らの頭の中で展開されているんですね。

そして、その頭の中で展開された世界に対して、
これじゃイカーンッ!まかりならーんっ!
って抵抗している自分という概念がいたりするんですよね。

この世界に対して、それを体験している自分という概念です。

そしてね、この自分っていう概念も、やっぱり頭の中に繰り広げられてる
イメージなんですよね。

で、頭の中にある判断を通した現実に対して、頭の中にある自分がジャッジをしている。
みたいな、無限ループを繰り広げてたりするんですよね。

そして、そこから、
いや、こうあるべきなのに、これじゃいかん。
じゃあ、どうすればいいんだ?
何が原因で、なにが結果となるのか?

といったように、お話を繰り広げてるんです。

そうやって、複雑化されたお話しは、さらに深刻さを増していき、
重たい感覚としてのしかかってきていたりするんです。

だからね。
その頭の中にあるイメージとしての自分が、
何かの修行をしたり、悟ろうとしたりしても
無理ゲーであるわけでしてね。

結局のところ、
なんにもしないでいいんですが、
これも、頭の中にあるイメージとしての自分が
何もしないようにしよう!としても
やっぱり無意味でしかなくて、

ただ、見てみるしかないというわけなんです。

また、この判断された現実。
つまり色(しき)をはなれて、
判断されないそのまんまの世界であると言われている
空(くう)に入ろうとするのも変な話で、

空(くう)ってのは、それにどんな判断がされようが
判断がなかろうが、それそのまんまの「それ」ですので、
誰かが入るとか出るとか、そういった類の話じゃ無いんですよねー。

なので、長時間、瞑想とかをして、
深い空(くう)に入ったぞ!
なんて感じているっていうのは、

頭の中のイメージである自分が、
リラックスしたという体験をしてる。
っていう物語なんです。

一瞥体験とかも同様で、
頭の中のイメージである自分が、
リラックスした体験をイメージ上の自分に
持ち込んでるだけなんですよね。

あるのは、記憶の中にある体験じゃなくて、
記憶や思考、感覚、感情に判断。
これら全ての起こってることの経験だけであって、
この起こってることと経験って=(イコール)なんです。

なので、「それ」しかなく、「それ」が全てであり、
そこに分離はなく、分離がないゆえに愛そのものであり、
分離がないので、誰かを苦に陥れることもなく、
不幸も存在しないので、至福がある。

といったように表現されているというわけなんです。

見抜くっていうのは、こういった頭の中で繰り広げられる物語が
起こらなくなる。ということじゃなくて、
単に、そのウソさが見抜かれているだけのことで、
いつでも、物語は起こり続けるわけなんです。

ただ、自分に起こるわけじゃないので、重さがなくなるんですよね。

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