Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

空に入らなくてもいいし、今ここに戻らなくてもいい

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イマココに落ち着くのです。
とか、
空に入るのです。

みたいな表現ってありますけど、
これって、ちょっと誤解があるかもしれません。

だって、今ここって正に今ここであって、
それって、もうそのまま、
今、ここの現実な訳ですから。

なので、落ち着こうが、イラつこうが、どうしようが
すでに今ここなんですよね。

どうしようもなく、今ここなんです。

リラックスしてようが慌ててようが、もうそれが今ここなんですよね。

もし、あなたがイライラしていたり、重苦しさを目の前の現実に感じていたとしたならば、
それが、イマココなんです。

そして、そのイマココに対して、何かしらの事について
受け入れられんっ!って感じてるというわけなんですよね。


そして、受け入れられんっ!って感じている間だけ、
なんだか、イマココが受け入れられん訳です。

イマココ以外のイメージを頭の中に浮かべていようが、
それがイマココな訳でして、もうイマココからは逃れらえない訳なんです。
何をしようがね。

どこかにイマココっていう至福がある訳じゃなく、
この、退屈な目の前の現実がイマココです。

認めたくない間だけ、なんだか重たく感じたり、分離を感じたり、退屈さを感じたりしている訳なんですよね。

私という概念を信じている間だけ、イマココは分離の世界のように見えているわけです。

「空」といった境地に入り込んだように感じていたとしても、
それは、そう感じている間だけ、そう見えているだけであって、
どんなことが起ころうと、イマココからは逃れようもなく、
時間の観念というアイデアを取り入れている時だけ、
このイマココの中で時間を生きているように見えている訳です。

どこかに至福がある訳じゃありません。

観念を信じるには、かなりのエネルギーを費やしているってだけなんです。

至福がどこかにある訳じゃなく、
観念を下ろした時にその費やしていたエネルギーをの重たさを知るんです。
重たい荷物を降ろした感覚が至福だと表現されているわけで、
もう最初っからそれなんです。

つまりどこにも行く必要性もなく、そしてどこにも行けないんですよね。
仮に、イマココを「悟り」と表現するのであれば、
「悟り」から離れることはできませんし、逃げることもできないんです。

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