Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

それってどれ?

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ったく、いつでもそれとかコレとか
なんやゆーたら、
「すべてはこれです。これしかありません(微笑)」
なーんて、
「それしかない」とか「コレしかない」とか
言いよってからにー!

なんか、いっつも最後は煙に巻かれるような感じになるんだよねー。

なーんてね。思ったりすることもあるかもしれません。

「ソレとは言葉にならないソレなんです」
「言葉では表現できないものなんです」
ってねー。

と、言うわけで今日は「それ」ってなんやねんについて書いてみたいと思います。


えっとね。
みなさんの目の前のことで確かめてみても良いと思うんですけど、

例えば、目の前にコーヒーがあるとするじゃないですか。

でね、
この目の前のコーヒー。
これは否定のしようもなくありますよねぇ。

「このコーヒーは幻想なんです」
っていったところでありますよねぇ。

バシャってかけられたら服は汚れますしね。

でも、本当にコーヒーがあるんでしょうか?
この辺をもうちょっと正確に表現するとしたらどうなるでしょうか?

コーヒーってのはあくまでも名前でしかないわけですよねぇ?
全てのコーヒーは同じように見えても、決して同じではなく
微妙に違ってくるわけですから、名前でひとまとめに呼ぶのは正確じゃないですよね。
つまり、コーヒーと便宜上は呼んではいるけど、
ホントは唯一無二の何か?があるわけですね。

言い方は良いとして、とにかく何かがあるわけです。

じゃあ、なんであると言えるのでしょうか?

「あるからあるんやー!」
「そのまんまやんかー!」

って思うかもしれませんが、
あると言うからにはどこかに根拠があるはずなんです。

あるというからには、あることに気づいておるわけですよね。
この気づきを根拠に、コーヒーのような何かが目の前にあるわけです。

気づいてなきゃないわけです。

気づいているから、あるって言える。

ん?

ということは、気づきが先立つわけですよねぇ?

で、気づきとある事って分けられるでしょうか?

また、コーヒーだけがあるわけじゃなく、その下には机のように見える板があって、
それにも気づいているわけでして、

じゃあ、その机の気づきとコーヒーの気づきって別物でしょうか?
その分類は思考的に、または観念的にそういう風にみなしてはいるけれど、
本当にそこに分離ってあるでしょうか?

気づきとある事についても、分けられるのは、
それに気づいている主体がここにいるからやー!

って事なんですが、その主体も気づきの中にしかいないのじゃないでしょうか?
気づき以外のどこかに主体ってあるでしょうか?

あれれ?

あるのはこの気づきだけ???

気づく主体もないとなると、気づきとも言えないし、
あららら?
あることはありますけど、分類もない主体もないとすれば、
当てはめる言葉があらへんやないのっ!

だから、「それ?」
だから、「これ?」

ってことなん????

うん。結局、あるがあるだけなんですよね。

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