Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「悟り」についての勘違い。

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ホントは、当たり前すぎてワロテまうやーん。てなお話なんですよね。

「それ」っていうのはね、
純粋な、
なにも加えられてない、
目の前の当たり前の世界です。

「純粋な」とは、観念がないということです。

いやね、、人生生きてりゃ色々とあるじゃないですか。

良いことも悪いことも、

良い時は特に気にならないですが、
悪い時は、どうすりゃ良いんだろう?
なんでこんな目にあってるんだろう?
なぜにこんなにツライ現実が襲ってくるんだろう?

とか、色々と考えちゃいますよね。

でも、悪く見える現実。
それがもう、起こってることは真実な訳で、
どうしよう、こうしよう以前にそれは真実な訳なんです。

で、できることは対処する。

それが、そのまんまです。

淡々と対処することを、あれこれと考え出すと、
なんだか重苦しくなってくる。

これは、真実を受け入れられてないからな訳でね。
この受け入れられなさがツライわけなんですよね。

辛かろうが嬉しかろうが、真実はドーンと目の前に鎮座しておるわけです。
そして、そこからは逃れられないわけですね。

これって、「自分」にとっては、時にとっても残酷に感じられたりするわけですが、
真実はどうにもしようがないわけです。

でね。
どんな真実にも耐えられる自分を手に入れられれば楽になれるのかも?
って思うんですよね。

「悟り」を手に入れられれば、どんなツライことも笑ってられるんじゃないだろうか?
ってね。

なんか、「悟り」について、そんな勘違いがある場面をたまに見聞きします。

でも、逆なんです。
どんなツライことでも耐えられるようになるのでもなく、
ツライことや、ツライ記憶を許すというよりは、
ツライことがあることをツラがる自分がいても良いじゃない!
って事を許してあげるんです。

ありのままにある事を受け入れてあげるんです。

ツライをツライのまま表現させてあげるんですね。
そのまんまにね。

もちろん、抱えきれそうにないツライことはプロの手を借りれば良いでしょうし、
身体がしんどいなら病院行けば良いし、
そういうことは淡々と対処するんですけどね。

あとは、ツラさはツラさで、楽しさは楽しさで、
そのまんまに居させてあげる。
表現させてあげる。

表現されている事を許してあげるんです。

そうやって、そのまんまにしていると、
当然のことながら、そのまんまの「それ」が姿を表します。

何にも色付けされてない。
ナマの「現実」、ナマの「日常」は、
まさに生命のナマの表現であって、
今まで心の重さで灰色に色付けていたナマの「それ」を
生き生きと蘇らせるんです。

忘れてた事を思い出す。

というか、
何かを付け足して、そのまんまを覆い隠していた。

の方が表現的には近いかもしれません。

記憶を参照したり、思考をしたり、観念や感情からくる物語に取り込まれてる時、
「それ」を覆い隠しているんです。

思い出そうとするというよりは、思考や感情が生まれてくるその元にある、
なにかしらのおままごとのルールのようなもの。
そのルールに則って現れた観念。
それを見てあげれば良いんです。

見るだけで、その観念のウソさが暴かれていきます。

焦る必要もなく、急ぐ必要もありません。

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