Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

そもそも次元に高いも低いもあるのかな?

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ほら、高次元の存在ってのが、まことしやかにささやかれていたりするじゃないですか?
でも、ホントに次元ってのに、高いとか低いってのがあるのかなぁ?
って思ったりするんですよね。


よく、人は3次元の世界で生きていて、縦横高さを認識できる。
二次元に生きている者は平面しか認識できず、上から物体が落ちてくると、
二次元の者にはいきなり物体が現れたように認識される。


逆に四次元とは時間をも行き来できる存在で、
5次元、6次元となると人には計り知れない次元があってそこを自由に行き来している。


みたいなね。


こんなもん、全部観念やん!
って言ってしまったら終わりになるので、観念やってのはちょっと置いといて、


次元ってのは単に認識の違いだけなんとちゃうんか?
って思うんですよ。


例えばコウモリは、ほとんど目が見えないって言われております。
その代わり、音の反射を利用して世界を認識しております。


そうやって構築された世界がコウモリとしての世界なわけですね。


カエルは動くモノしかとらえることが出来ないって言われております。
その方が虫とかを捕まえやすいのかもしれませんねぇ。
それがカエルさんの世界です。


虫は触覚を主に利用して世界を認識しております。


僕たち人間は、光の反射を利用して、その光を目で受け止めて世界を認識しております。
音や触覚などでも補完して世界を捉えておるわけですが、
聞こえる音の範囲やニオイを嗅ぎ分ける能力は犬にも劣る能力しか持っておりません。


目は犬よりは見えているらしいですが、動体視力は犬の方が上です。


そうやって、各々が各々のやり方で世界を構築してるわけですね。


ここに、次元が高いとか低いとかそんなものは有りようがないんですよね。


いずれも、各々の最適なやり方で世界を構築しておるだけですから。


そして、各々の世界は全く別物とも言えますね。


同じ人間同士だと、かなり似た世界を構築するわけですが、それでも人によっては世界の認識の仕方は全く違ってくるわけであります。


それぞれの個性や記憶、経験などから認識の仕方が変わってくるわけですね。


そうやって、考えてみると、いやいやホンマに目の前に広がる世界とか現実とか。
そういうものも、幻想のようなモノだなぁ~って思えてきます。


そして、誰かの世界観が素晴らしくて、誰かの世界観が劣ってるなんてのもなく、各々が最適な世界観を作ってるという面では、もうすでに完璧じゃん!って思えるんですよね。


なので、何かしらの高次元の存在なんてのも、単純に世界観ちがうだけでしょ。
ってことになるわけで、次元が違う存在が、人の言葉で語りかけてくるわけもなく、
語りかけられたのだとしたら、それは、その人自身の言葉なわけですね。


そして、あらゆることが起こるこの世界も、このなんとも言葉に仕様がない「在る」のなかに起こってるわけです。


認識された世界観が幻想だろうがどうだろうが、んなことは関係なく認識以前に「在る」が在るんですよね。


そもそも、高い次元の人が仮にいたとして、そういう人が低次元の人たちに語り掛けるってねぇ。
ちょっとイタイじゃないですか。


なにがイタイのかといいますとね。


いい大人が、子供たちと一緒に、遊ぼうとしている。みたいなイタさです。
同じ次元同士でよろしくやってたらいいのに、わざわざ低次元の世界にやってきてありがたられようってね。
なんか、友達いないイタイ人みたいな感じなので、仮に高次元が本当だとしてもあまり相手にしない方が良いような方たちなんじゃないのか?


って思ったりもします。


ま、いずれにしても、次元自体がすでに観念にすぎないわけで、
どんな観念であろうが、観念自体には実体はなく、


観念以前の「在る」があるだけなんです。


だからといって構築される世界が偽物のくだらないモノなのかというと、全くそういうわけじゃなく、


「在る」のなかで観念が世界を構築されるってのが、奇跡的に起こっていて、もうそれはそれですばらしいわけです。


まさに、「在る」と観念は同じものなんですね。


実体はないけど、実相はもう「在る」そのものと何ら違いがないんですよね。


と、話がややこしくなってきましたので、今日はこのへんで。


また明日~♪

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