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Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

自分は消えません。最初っから無いんです。

自我の消失 私はいない

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あー。まだ私がのこってる。
覚者っぽい先生は
「私は消えたんです。」
って言ってはったから、それが消えたらゴールなんやろうけど、
ある時は消えたと思っても、やっぱりまだ出てくるんだよねー。

よし!もっとサットサンにいって、なんか覚者のエネルギーに触れて、
この私の消滅を実現しなくては!


もっと非二元のブログなり本を読んで勉強しなくては!

みたいに思っちゃったりして、、、

そやって、自分を消す努力をしてる方も中には居られるかもしれませんけど、
そんなもん消せないんですよね。

だって、最初っからないからです。


これ、自分だけじゃなくて自我もそうです。
自我ももともとないんです。
便宜上、自我がーとか真我がーとか言ってますけど、
そういうのも、本当はないんですよね。


とはいっても、やっぱり自分というものを感じるし、
昔の嫌な記憶もあるし、
どう考えても自分がいるのはもう自明なんですけど、、、


って思うかもしれません。


自分はいないといったところで、あんただって、呼ばれたら
はいはーい。って答えるでしょ?
じゃあ、自分がいるじゃないですか!


ってことなんですよ。


そういう事を、覚者っぽい人に聞くと、


「それが起こってるだけなんです~。」
「そこに私はいません~。」


ってね。答えはると思うんですよね。
聞いたことないから知りませんけど、、、


聞く側からしたらもう、???になったりしますよねぇ。
なんか、ごまかされてるだけなのでは?って思ったりもするかもしれません。


もっと突っ込んで聞いてみたら、もしかしたら

「パーソナリティーは起こりますし、どんなことでも起こるんです。」
「それがただ起こってるだけ。」
「でね、起こっていて起こってないんです~。」


みたいに言われるかもしれません。


これも、聞く側からすると???やと思うんですよ。


なんか、特別な感覚がある。悟っているからそういう事を言えたりするのか?
と思ったり、


インチキじゃないのか?って思ったりもするかもしれません。


更に聞いてみると、
「ワタシってのは、エネルギーなんです。」
「探究のエネルギー、収縮したエネルギーなんです。」


って言われてね。
もうお手上げなんです。


なんやねん。エネルギーて。
収縮?探究??
よくわからんわ!


ってなりますよねぇ。


いや、聞いたことないので知りませんけど、、、(笑)


というわけで、これらのことをちょっと違う言葉で表現してみたいと思います。


もちろん、そう言われてることって間違ってるわけじゃないんですけどね。
それどころか、ほんと、雑味なく良い表現やなぁーって思います。


でも、理解しようとしたらわからなくなるんです。
そりゃあ、当然のことであって、理解以前のことを表現されているからなんですね。


雑味があればあるほど、言葉を尽くせば尽くすほど「それ」とは程遠くなるんです。


さて、、、


まずね。
ワタシはいない。とか自分がいないとか、自我とかね。


このワタシとか、自分とか、自我とか。


これらってぜーんぶただの思考なんです。


思考っていうのは、起こることに後付けされて出てくる観念なんです。


起こることを説明するためのレッテルみたいなもんですね。


なので、実体はないんです。
実体はないけど、思考は起こりますよね。
それをどうにかしようとしても、勝手に起こってくるんですよね。


どうにかする自分というのもまた、一つの観念ですので、
どうにかする誰かってのも実体はなく、ひとつの思考でしかないので、
どうにもしようがないんです。


思考はあるように確かに見えるけど、実体はないわけです。


つまり、あるともないとも言えないわけです。


どっちでもないからね。
ある、ないの区別すら疑ってみて、よくよくみてみれば、
そんなんもホントはないんですけどね。


起こっていて起こってないってのもそういうニュアンスなわけです。


では、エネルギー?
探究のエネルギー?
収縮のエネルギー?


ってなんぞや?
って言いますと、


ほっとけない思い。
みたいな感じのものです。


何をほっとけないのか?と言いますと、
思考とか観念とか記憶とか感情のようなもののことです。


勝手に起こってくるこれらの思考等を、ほっとけばいいんですけど、
ほっとけないっていう引力のようなものがあるじゃないですか?
その引力的な奴をエネルギーやと表現されとるわけです。


僕もよく、「そのまんまにしておく」とええんですよー。
で、「そのまんまにしておけないー!」ってのがでてきたら、
それをただ見てみたら良いんです。


とか言う言い方で、どこかで書いたような気がしますが、


探究のエネルギーっていうのも、それです。


このエネルギーっていうのも、ただ見てみたら消えていくんですよね。


その際に不安とか恐怖とか怒りとかもあると思うんですよね。
で、そういうのがあっていいんです。
居ていいんだよーって許してあげるんです。


もちろん、自分っていう思考だって起こってきます。
これはただの思考やとわかってると、わざわざ自分を消そうとかする必要もなくなるわけです。
いさしてあげたらいいんです。


ただ見てみたら良いってのは、許してあげてーってことと同じ意味になりますね。
許せないとただ見ることってできないですからね。

あとは、勝手に必要なことが完璧に起こり続けるわけです。
淡々とね。

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