Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

変わることと変わらないこと

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おはようございます。
タクさんです。

「それ」って別に目の前の現実と何にも変わらないんですよー。

っていうか、目の前の現実こそが「それ」そのものなんですよー。

何処かに「空(くう)」と呼ばれる何かが「色(しき)」とは違うところに在るんじゃないんですよー。

おなじことを「空」と言って見たり、「色」っていってみたり、単に呼び名を変えてるだけなんですよー。

みたいにね。
最近は書いてきたかと思いますが、
じゃあ、何が変わるねん?ってことを今日は書いてみたいと思います。

なんで、変わらない!ってことを言うのかというと、
修行をしたりしたその先に特別な何か(悟り)がある。

っていう観念が結構つよく残ってたり場合が多いからですね。

だから、そういう事じゃないねん。
何かが変わるわけじゃなく、最初からあるねん。
って言ってたわけですが、
最初からあるんやったら、もうそのまんまでええんやん!
って思ってしまいますよね。

そのまんまってのが、ホントのそのまんまやったら良いんですけど、
アッチコッチに行きまくってるのに、そのアッチコッチに行きまくることをそのまんまで良いんや!
ってするとね。

疲れますやん?
その疲れがあるから、「それ」的なことを求めてるのに、答えになってませんやん?

っていう事もあるので、

この変わることについても書いてみたいと思います。
それで、何が変わらんのか?ってこともなんとなくつかめると思うんです。

例えばね。

太陽から降り注ぐ日差し。

この日差しを、ややこしい会議やら打ち合わせやらをしている最中に窓から見るとするじゃないですか。
打ち合わせでは、時間も足りないし、金も足りないし、人員も足りない、、、
みたいな話をしてるわけですよ。
仕事の打ち合わせって大概がそういったもんじゃないですか。

で、そういった最中に窓から見える日差しって、なーんていうか、
見飽きた風景のように見えたり、
ちょっと天気がいいのが恨めしく感じて見えたりするかもしれません。

それがね。

同じ日差しでも、
今日はヴァカンス初日!
旅行先のホテルの窓からは日差しが暖かく草木を包み込んでいる!
っていう場合だったら、

もうなんか、ワクワクして、キラッキラに見えますよね。

なんでこんなにも見え方が変わるのか?
って言いますと、
日差しを心を通して見てるからなんです。

変わるのは、その心の方であって、日差しの方は最初っからなーんにも変わってないんですよね。

そして、心を通して見るクセが見抜かれると、そのまんまの風景が姿を現します。

そのそのまんまってのが「それ」なんですよね。

この見抜かれることを悟り。みたいに言われたりしてるわけですが、

見抜いたりする誰かなんていない。ってのも明らかになりますので、
悟りなんてのもないんです。

そのまんまの風景ってのは、分離がありませんので、愛と表現されたり、
常に生き生きと起こってますので、生命感。生きてる感じ。
みたいに表現されたり、
それもこれも含めた全部なので、全てだと表現されたりします。

いずれにしても、言葉で「それ」を完全には表現することはできないんです。


さて、心で見ているってことが見抜かれるってのが「それ」とか「悟り」と言われてるもんだとしたら、

心の方をいい感じに変えていこうとしてるのが、引き寄せだったり、ポジティブシンキングだったりします。

いわゆるスピ系のワークとか修行だって、心の方を鎮めようとかキレイにしよう。
みたいな試みだったりしますので、心をかえて見え方をいい感じにしようぜって試みですね。

僕はそういったワークとか修行とかの先に「それ」とか「悟り」があるんじゃないんですよねん。

って書いたりしてますが、それは、結局そのまんまじゃなくて、心を通して見てるは変わらないからなんです。

心を通して見られたものは、物語であって、そのまんまじゃないので、
いくら心が変わって見える景色が変わったとしても、それも物語ですよねー。
ってことなんです。

じゃ、心を通してみたらあかんのか?って聞こえるかもしれませんが、そういう事でもありません。

ここからはちょっと変な話なんですけど、

まずは心で見てることすら、普通は気づいてませんので、
自分が心で見てることを知らなきゃ話は始まりません。

どやって知るのか?というと、ただ、自分を見てみるしかないんですよね。

で、すぐには見えないかもしれませんけど、懲りずに見てみると、
あ、自分は心で見た世界を世界だと思って、この世界に苦しめられていた!

みたいなことが明らかになってくるんですよね。

この心は自分の心なわけやから、壮大な一人相撲をしてただけやったんやー。
みたいになるんですけど、

さらにそこから見ることが極まってくると、

あれ?心を通して見てたと思ってたけど、心なんてもんもないやん。

在るが在るだけやん。

ってことが明らかになってくるんです。

でね、在るが在るだけで、見てると思ってたけど、見てる誰かもおらず、
それがあるだけ。

ってなってくるんです。

なので、心で見てようが、見ていまいが、それも幻想みたいなもんで、
そんなんも無いってことになるんです。

この辺のことはもう究極の「それ」ですので、そんなもんを自分の中に持ち込んで理解しようとしても混乱するだけなので、

まずは、心のような色眼鏡で世界を見てるってことに気づいてみる。
そんな自分を見てみると良いと思います。

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