Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分が在るんじゃなくて、在るを自分と錯覚してるだけなんです。

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おっはようございます。タクさんです。

今日も私はいない話をしてみよっかなーって思います。

私ってね。
多分多くの人が、漠然と身体とか、心とか。
そういうのが私だって、
なんとなーく、思ってたりすると思うんですよ。

でね、じゃあ、身体のどこに私がいる?
心のどこに私がいる?

ってね。
聞かれたとしても、確かに身体のどこかの部分に私がいるわけでもなく、
それでもって、
心のどこかに私っていう部分があるわけじゃない。
っていうのもね。

認識としては分かると思うんですよね。

でも、そういうことを聞いたとしても、
依然として私はいるっていう感覚って残ってると思うんですよね。

なんだかんだ言われたところで、やっぱり私っていう存在感は確かにあるじゃないか。
ここを起点に、あらゆる感情も感覚も感じておるわけだし。

って感じて、
そういう話を聞いた時だけは、
ホンマや!
私っていないのかも???

って思ったりするんですけど、
結局、話を聞いてる時だけで、すぐに私に戻ってしまうー。
なんてこともあったりするかもしれません。

確かに、心の感情にも、身体の感覚にも気づいてますよね。
そういうことを気づいている何か?っていうのはあるわけです。
全ての感覚が飛んでっても、なんていうか、存在感としてあるんですよね。

そしてこの在るって感じはもう子供の頃から変わらずにあるわけなんです。
記憶には残ってないかもしれませんが、赤ん坊の頃にもあるんです。

その気づいている感じ。
それが気づきなんですけどね。

僕らは生きてますし、生きてるっていう認識以前に、そういう生命感っていうか
存在感みたいなものってずーっと離れずにあるんですよね。

でね。
実のところ、その「ある」っていうところでもう終わりなんですよね。
このあるっていう感じはものすごく近くに、
といいますか、もうそれそのものとしてずっとあって、
その在るっていう存在感も離れたことがないんです。

で、それだけなんです。
それが全てなんですよね。

この在るって感じは当たり前になりすぎていて、
そこから現れた身体の感覚やら心の感情が万華鏡のように移り変わったりしてるわけですが、
その移り変わりと「在る」を、まるっとひとまとめにして、それを自分や!っていうふうに
無意識のうちに概念化しておったんです。

でね。
「在る」っていうのは、なんの特徴もないもんですから、
すっかり無視されちゃって、思考の刺激に巻き込まれちゃうんですよね。

雰囲気としては、身体の力を抜いてたら、身体っていうのは意識しにくいけど、
身体のどこかに力を入れたら、その力を入れた部分って意識されるじゃないですか。

で、いつの間にかその意識された部分だけを自分やと勘違いしちゃう。
みたいな感じです。

でもって、自分を保たなきゃ、なんか死んでしまう。みたいな感覚も相まって、
ずっとどこかに力を入れ続けてしまう。
みたいなね。

その感じが、ずっと思考のおしゃべりに意識し続けてしまうクセに似てるんじゃないかなーって思います。

力を抜いたら、ただ、在るが在るだけ。
でもって、それで全てでそれ以外はない。

起こってることもその全てのひとかけらの部分で起こっていて、
全てと一切離れていないんですよね。

だから、思考の世界から悟りの世界に向かおうと頑張ってみても無理ゲーなんです。
だって、その目の前の世界がまさに「それ」そのものだからです。

色即是空の、色とか、空とか別個のもののように言ってますけど、
同じものなんです。

空に入るとか、入らないとか。。。
そんなんありえないんですよね。

出たこともないし、入ったこともないんです。

空そのものしかないわけですからね。
色とか空とか、そういった区別なんてのがもう無いんです。

そんな区別なんてあらへんのやー!
というのを表現してるのが、色即是空っていう言葉の意味なんですよね。

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