Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

悟りの体験とか、関係なくて、中心がないだけなんですよね

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ホントのとこは中心がないだけなんですよね。
そんなん最初っから無いですやん!っていう発見なんです。
何であると思ってたんや!
みたいなね。

中心がないってどういうことやねん!
と言いますと、この中心っていうのがワタシなんです。

もちろんね。

地図とかを見て、どこか行こうとするとね、中心点っていうか、起点っていう概念は必要じゃないですか?

同様にね、いろんなことを理解したり分析したりするのにも起点が必要なんですよね。

でも、この起点っていうのは、あくまでも理解したり分析したりするためのひとつの概念に過ぎないわけなんですよね。

この起点がいつしか、ワタシとなり、そして、ワタシを取り巻く世界を作り出しておるわけなんです。

ワタシがいないということに目覚めるとそういった世界がガラガラとなくなってしまうのか?
この自分というものがなくなるのか?
心や体の感覚が消え失せるのか?

みたいにね。
そういった想像をしてしまったりもするかと思うんですが、
全然そういう事じゃなくて、
ただ単に、概念として起点を作り出していたことを思い出すだけであってね。
ホントはそんな中心点も無けりゃ、ワタシというのも概念としてあるだけやったんやんかー。
ってね。
ホントにシンプルで当たり前のことを思い出すだけなんですよね。

だからね。

長年修行をしたり、座禅を組んだり、特別な伝授を受けてみたりとかね。

瞑想中に光に包まれて、なんか神秘的な体験をしてみたり、
心身脱落みたいな状態になって、全てが空っぽになる。
みたいな体験をしてみたりね。

それはそれでいいですけど、
それを悟りの状態だー。
みたいに捉えるのも、全然違いますやん!ってことなんです。

僕も、全てが無い!状態になったことがあるんですけどね。

確かに、全てが無い。そして完全なる空(くう)しかない!

みたいな体験をしたことがあります。

一瞥体験とか悟りの体験みたいに呼ばれてるやつですけどね。

で、こういったことを語る先生もそういった体験のことを語るじゃないですか。
関係ないんですけど~。って言いながらもね。

で、もって、なんにもないんですよ~。
起こっているように見えてて起こってないんですよ~。

ってね。

その体験のことを説明する言葉と、単純にシンプルな「それ」のことを言ってるだけの言葉って、結構かぶってるんですよね。

なので、悟りの状態。ワタシはいない状態を保つことが「それ」の体現になるんだ!
みたいな考え方も出てきちゃったりもするわけなんですけど、

ホンマのところ、そんな神秘的なもんじゃないんですよね。

単純に中心点がないだけ。
そんなもん最初っから無かっただけ。

ってことなんですよね。

だから、起こることは起こっとるし、
好き嫌いもあるし、むかっ腹の立つこともあるわけですよ。
タンスに小指をぶつけたら痛いですし、
あー畜生ー!ってもっかいタンスを蹴りたくなって、でも蹴ったらまた足痛いし~!
ってもんもんとしたりすることも起こるわけです。

ただ、それがワタシに起こってこないんで、苦なんてもんは無いんですよね。
苦っていうのもあるように見えていただけなんですね。

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