Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

非二元の言葉は自分で確かめてみること

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ブッダの弟子達が森の中で瞑想していた時、
そこに一番修行熱心な弟子の膝元に、毒蛇が近づいてきた。

男はその気配を感じて、ドキっと凍り付きつつも、
「どうしよう、逃げようか??
いや、うろたえちゃいけない。
精神統一を、こんなことで乱すようではいかんのではないだろうか?
お釈迦様はどんな時でも無になれと言ってはるし、、、
それに、ワタシこそが、一番熱心な修行者でもある!
こんなもんで、うろたえたら後輩達にもかっこわるいやないかー!」

そんなこんな考えながら、恐怖心をなんとか精神統一でもって、
克服しようと頑張っておりました。

何事もないかのように、瞑想を続けていたのだそうです。

そして、案の定、蛇に咬まれてその毒でもって死んでしまったんだそうです。

それを聞いてお釈迦はんは言ったそうです。

「馬鹿な奴だ」

ちょっ!
お釈迦さん、冷たすぎ!

というわけで、おはようございます。タクさんです。

冒頭のお釈迦はんの話しは、ホントかウソかは知りませんが、一つの逸話です。

真偽は置いておいて、この話は
お釈迦さんのいう事を鵜呑みにすることはバカなことだ!という事を表現している話なのであります。

これって、非二元とか、スピリチュアルとかの表現を鵜呑みにしちゃうのも同じことですよね。

僕もね、なんというか、生きにくさに悩んでた時に、歴史書を読み漁って、人生の道しるべを求めたり、成功哲学とかそんな本を読み漁ったり、
そんなこんなをしているときに、瞑想というものや悟りというようなものものがあることを知って、
瞑想教室とか引き寄せとかスピリチュアル系のワークとかに精を出していたことがあったんですけどね。

悟りとは、杖無しに自身で立つことである。

みたいな言葉を聞いたこともあるんですけど、道しるべを求めてたりすることも、どこかに万能の杖があるのではないか?
なんておもって探し求めてたりしてたんですよね。

時には、とある先生に、闇の存在があなたの中に憑依している。

みたいなことを言われて、その憑依を取り除くワーク。みたいなものを夢中でやってたりね。
そんなこともやってたりしてたことがあります。

結局のところ、そやって、先生の言葉を頼りにしちゃったり、
聖者のことばを鵜呑みにすることって、
自信のなさの表れだったりするんですよね。

だからと言って、インチキだー!って叫んでるだけってのも、同じく自信のなさからくるものなんですけどね。

自信ってのは、空威張りすることでもなく、こうと決めてわき見しない。
ということでもなく、
どんなことがあっても平気だぜ!動じないぜ!
みたいなものになるものでもなく、
どんな自分も許して受け入れてあげる。
ってことなんですよね。
ダメでも良いってことです。
何かしらの嫌な感情って、ある種の条件付けによって隠されてきた自分なんです。
こうであらねばならない。
みたいな条件付けがあったとしたら、こうじゃない方の自分が隠されてるんです。
そういったこだわりが強ければ強いほど、深く隠されることになります。

そういった隠された自分が、何かしらのトリガーをきっかけに現れてくることがあります。
時にはそれは他人に向けた怒りのような形で現れてくる場合もあります。
でもそれも自分の中にある自分のものなんです。
それを許すことができたら、自分を受け入れられるようになってくるんです。

自信ってのは、自分を信じるってことであって、信じるには、まずは、自分を知らなきゃならんわけです。

それには、隠された自分があぶり出されて初めてわかってきます。

そして、そうして隠されてたのは、条件付けがあったからであって、
こういった条件付けはある種の観念があったからなんだー。
って明らかになっていきます。

そして最初の観念は分離という観念なんですね。
この分離という観念は私がいるという思いだったりするわけです。

さて、
お釈迦さんの言葉も、何かのフィルターを通して聞いたら、ただのたわ言です。
いろんな言葉を聞いたり見たりするのは、大賛成なんですが、
その言葉を何でもかんでも鵜呑みにしたり、

先生のところに通うのも全然いいんですけど、
なんでもかんでも先生が言うから正しいと鵜呑みにするのではなく、
とある言葉なり、何らかの体験が、
何か自分の中でポワって光るような感覚があったら、
その言葉を信じるのではなく、その、ポワってる方の、
自分の中の感覚を見てみたら良いんです。

一番の師は自分自身なわけですからね。

自分の中を観察してみるんです。

べつにぽわって光らなくてもいいんですが、
良いものでも、嫌なものでも、
何かしらの感覚が起こったなら、その感覚の方を見てみたら良いんですよね。

「ワタシはいない」
という言葉を鵜呑みにする以前に、
ワタシとはなんだ??
って確かめてみたら良いと思います。

どこにもいないってことが、確かめられたら、

ありゃりゃ?

ホンマに在るが在るだけやん!

どないやねん!これ!

って明らかになってくるんです。

在るが在るだけってなんやねん!
そんなもん意味がないやないかー!
インチキじゃー!
って文句ばっかりが出てきたとしたら、

なんで意味を求めているのか?
なんで怒ってるのか?
何が損なわれていると感じたのか?
この変な正義感はなんだ?
って見てみたら良いんです。

その奥にある、
言葉以前の、名もない感覚を見てみるんです。

なーんも判断せずに、何の感想も付け加えずに、
ただ見ることができるということは、許せているということになります。

この感覚をそのまんま、いさせてあげるんです。
抑圧された感覚は、その抑圧から解放され、
それは、嫌なものでも何でもなかったことが明らかになっていくんです。

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